征夷大将軍に就く前から家康は偉かった

秀吉は、先にも述べたように、「小牧・長久手の戦い」までは、朝廷の官職について興味を持たなかった。それが、家康を正面から叩き潰すのが難しいとなったときに、突如として官職を手に入れようとして動き出し、関白になった。これは完全に目的ではなく手段でした。その意味で言うと、秀吉も基本的には「官職は使えるならば使う」という捉え方だったと見ていい。

家康はご存じの通り、征夷大将軍になって江戸で幕府を開いています。しかし信長、秀吉の段階ですでに、朝廷の与えてくれる位についてはずいぶんと乾いた感覚だったわけですから、家康の当時、征夷大将軍にそこまで意味があるかといったら、とりあえずなかったと私は思います。

「頼朝が鎌倉幕府を開いたのはいつか?」。彼が征夷大将軍になった1192年説は現代では支持されず、その前の1185年にすでに鎌倉幕府は成立していたという解釈が一般的です。

では「足利尊氏が室町幕府を開いたのはいつか?」。以前は尊氏が征夷大将軍になった1338年とされていましたが、現代では建武式目がつくられた1336年が定説になっています。

本郷和人『日本史の法則』(河出新書)

となると家康も、彼が征夷大将軍になった1603年ではなく、「関ヶ原の戦い」の勝者となった1600年に、徳川幕府を開いたと見てよいのではないでしょうか。

関ヶ原の戦後、家康は大名たちに「お前は俺のために戦ってくれたから、領地を倍にしてやる。お前は敵に加担したから領地没収。お前はさらに積極的に敵に回ったから切腹な」と、彼個人の意志で天下の戦後処理を行っています。

だから私は、1600年の段階ですでに家康は天下人になった。江戸幕府はそこから始まったと見ていいのではないと考えています。その3年後に家康は征夷大将軍になりますが、それはもう本当にオマケのセレモニーでしかなかったのです。彼はやがて将軍職を息子の秀忠に譲りますが、大御所様として天下人であり続けます。

関連記事
【第1回】「元寇は神風が吹かなくても本当は防げた」鎌倉幕府が幾度もあったチャンスを見逃した根本原因
「1泊250万円のホテルで大豪遊」日本をしゃぶり尽くしたバッハ会長が次に狙うもの
「中世の日本に本当にあったデスノートの正体」なぜ僧侶たちは敵を呪い殺せたのか
江戸時代の東京が同時代のヨーロッパより圧倒的に"美しい街"だった宗教的な理由
池上彰「コロナ禍をどう生きるべきかは、すべて歴史書を読めばわかる」