徳川家康は「征夷大将軍」を名乗ったが、豊臣秀吉は「関白」を名乗った。これにはどんな違いがあったのか。東京大学史料編纂所の本郷和人教授は「秀吉は家康と正面から戦いたくなかったので、朝廷の官位を活用した。上下はあっても、主従関係ではないため、家康の従属を勝ち取ることができた」という――。
※本稿は、本郷和人『日本史の法則』(河出新書)の一部を再編集したものです。
「私は関白です。だから偉い。皆さん、頭を下げなさい」
豊臣秀吉は自分が天下人である印として「関白」というポストを選択しました。「私は関白です。だから偉い。皆さん、頭を下げなさい」と。これは非常に巧いやり方だったのですが、なぜ彼がこのような手をつかったかというと、そこには徳川家康の存在があります。
秀吉は「小牧・長久手の戦い」(1584)で家康と戦いましたが、そのとき秀吉は、家康を単純な戦闘では負かすことができなかった。秀吉は明智光秀を打ち破り、柴田勝家を打ち破ってきましたが、家康を戦場に引きずり出して戦ったときには、家康を負かすことはできなかった。もし総力を挙げて家康に挑めば勝っていたかもしれませんが、そうして家康を滅ぼしたとしても、自分自身も相当のダメージを被ってしまう。そう秀吉は判断していたらしい。
当時の秀吉には、まだ四国に長宗我部がいて、九州に島津もいる。関東では北条が頑張っている。東北には伊達政宗のような大名がいるという状況で、敵対する可能性のある勢力がまだまだいた。そうした状況を踏まえて「ここであまり力を消耗したくない」と判断したのでしょう。
そこで秀吉は巧い手を思いついた。それが、朝廷の官位を活用すること。朝廷のポストを十分に使いこなすことで、家康の従属を勝ち取ろうという考えだったのではないかと、私は見ています。
秀吉が、そうした非常に面白い手を思いつくアイディアマンだったという評価は、だいたい研究者の間でも共有されている認識ですが、朝廷のポストを持ち出して家康を従属させようとしたところにも、彼の資質がよく表れていると思います。