「皇帝」になろうとした織田信長
信長については「三職推任問題」という議論が取り沙汰されることがあります。
1582年、「本能寺の変」が起きるその年に、朝廷側から信長に対して「関白か太政大臣か将軍か、この3つのうち、どれでも好きな職に就いてください」という申し入れがあった。信長は、「わかりました」とは答えたのですが、具体的にどの職をのぞむか回答せずに京都から帰る。その後、「本能寺の変」が起こって命を落としたものですから「信長は一体何になろうとしていたのか」という謎が残ってしまった。
これが「三職推任問題」です。この問題を考えることで、「信長は一体どのように朝廷を捉えていたのだろうか」という視野も導かれることになります。
かつては「信長は神になろうとしていた」という説もありましたが、信長は右大臣を一度やって辞めており、朝廷から提案された三職についても、今さら興味がなく、どの職にもつくつもりはなかったと、一時は皆、だいたいそのように考えていました。
しかし最近になって、だいぶ潮目が変わってきた。「信長はどれかになろうとしていたのではないか」。さらに言うと「将軍になろうとしていたのではないか」という論調に変わってきています。私自身はその見方には反対で、信長ほど高度にオリジナリティのある人が、さて朝廷からポストをもらうことにありがたみを感じるものでしょうか。
彼は、安土城の天守閣に住んでいた。中国の偉い人の絵を描かせたり、インドの仏教の仏様を描かせたりした障壁画に囲まれて起居していた人です。岐阜という名前。天下布武。そうした信長の世界観を想像すると、「自分は仏よりも中国の孔子たちよりも偉い」と考えていたのではないでしょうか。そんな信長が朝廷のポストをありがたく思うはずがない。信長は案外、皇帝になろうとしていたのではないでしょうか。そう私は考えています。
ですから、私は、万世一系の天皇という存在が、もっとも危険にさらされたのは、信長の時ではないかと考えています。ただ、信長が自身の考えを表明し、その構想を実行に移す前に、本能寺で命を落とすことになりました。