人が運をつかむのでなく、運が人を選んで訪れる

一度、これはすごい打ち手だなという人物と対局したことがある。「流れ」をとらえる感覚とスピード、一分の隙もない美しい所作しょさ、勝負に対する姿勢……いずれをとっても超一級の腕の持ち主であることは最初の一打ですぐにわかった。

水につけていた顔を洗面器から先に上げたほうが負けというような緊迫した勝負が夜を何日かまたいで続いた。最後の勝負所という局面、相手にほんの一瞬、隙が生まれ、流れが微妙に変化した。誰も気づかないような、一打のわずかな波紋である。

そのかすかなほころびを私は感じ取った。そして新たな流れをつかんだことで辛うじて勝つことができた。実力や人智を超えたところにある、ほんのわずかな違いであった。

いい流れを感じ取ってその流れに乗る。これもまた、運に恵まれるうえでは欠かせない作法のひとつである。

ものごとを正しくとらえ、正しい行動を正しいタイミングで取る。遊び心を持ちながらも自分をどこかで律する。日々のそうした積み重ねがあるかないかによって、運に好かれるかどうかも変わってくる。

運は必然の流れによってもたらされるものであり、しかるべき行動ができている人を運の側が「選ぶ」のだと思う。運は、人が呼んでやって来るようなものでは一切なく、あくまで運のほうが人を選ぶのだ。

「運に選ばれる人」になる──。これが重要なのだ。

他力本願ではモノにできない…

「運をつかむ」「運がやって来る」といういい方をすると、運というものがあたかも実体があるかのようにも感じられる。

しかし、実際は天から降ってくるものでも、地面から湧いてくるものでもない。もちろん、そんなことはわかりきっているが、それでも何か漠然とおぼろげな形をした運が、どこかにひそんでいるかのような感覚を抱いている人は少なくないだろう。

歩いていたらたまたま出くわすラッキーなこと。それが運に対してしばしば持たれるイメージだ。

ただ、運は受け身でとらえている限り、そう簡単にやって来るものではない。他力本願な生き方でモノにできるほど、運は都合よくできていない。

「運よ、来い」「ツキよ、来い」と求め、願うような姿勢では運と巡り合うことはできないのだ。