社会に蔓延している「本音」

のちに落合氏は「介護にまつわるコスト課題(職員のサポート)と、終末期医療にまつわるコスト課題を、対談形式なので同列に語ってしまった」ことや、「終末期医療に関してコストや医療費負担の知識が不足していたため、校正でも気が付かなかった」ことを訂正し、反省の言葉をウェブサイトに投稿しています。

池田清彦『「現代優生学」の脅威』(インターナショナル新書)

落合氏に「命の選別をする意図はなかった」というのは、おそらくその通りなのでしょう。ここで本当に問題なのは、彼らの思想よりも社会に蔓延している「本音」のほうです。

近年、政治家や知識人、識者とみなされる人たちから、以前なら退けられていたような極論が、さも「合理的で現実的な解」であるかのような言葉で言い換えられる状況が見受けられます。たとえば、麻生太郎副総理兼財務相は2013年1月に行われた社会保障制度改革国民会議で、終末期医療について、「私は少なくともそういう必要はないと遺書を書いている」とし、「いいかげんに死にたいと思っても『生きられますから』と生かされたらかなわない。さっさと死ねるようにしてもらわないと」などと語りました。

麻生副総理はさらに、「政府の金で(高額医療を)やってもらっていると思うとますます寝覚めが悪い」とも述べています。その後、記者会見で「私見で、一般論ではない」と釈明し、「適当でない面もあった」と文書で発言を撤回しました。

こうした発言は、かつてであれば社会的に大バッシングされてもおかしくはありませんでした。しかし、このような極端な主張に対しても、「よくぞ言ってくれた」と言わんばかりに、擁護や賛同の声が上がるといった風潮が、社会全体に広がっています。

確かに現在の日本の医療費は年間40兆円を超えていて、持続可能性が危ぶまれているのは確かです。社会保障給付費の9割を占める年金・医療費・介護費が、現役世代の負担になっているのも間違いありません。しかし、財源を根拠に「安楽死」を制度化することは、確実に優生学的な思想へつながっていくでしょう。

「死」は自分で決められるのか

死を選ぶには相応の理由があり、本人に十分な判断能力があって死を希望するのであれば、「死ぬ権利」を奪うべきではないという考え方は、今や多くの人が消極的であれ賛同しているのかもしれません。これはつまり、「人間には死の自己決定権がある」という考え方です。

しかし、私は以下の理由から、「死の自己決定権」という考え方には同意できません。この点については『脳死臓器移植は正しいか』(角川ソフィア文庫)で詳細に論じていますので、ここでは要点だけ説明します。