身体や命は自分の所有物ではない

理由1 自分の身体や自分の命は、自分の所有物ではない

誰かが何かを「所有する」というのは、「特定の人以外は、誰も恣意的に使用したり処分したりすることができない」ことを意味します。自分の身体や命は、他人が勝手に処分することができません。したがって、本人以外の誰かの所有物でないことは自明です。

それでは自分の所有物かと言えば、そういうわけでもありません。身体や命は労働の成果として、あるいは労働の対価として、または自由な取引によって得たものでもなければ、相続や贈与や何らかの社会的な行為によって得たものでもない。そのようなものを自己の所有物と言うことはできず、我々は「自己の身体の管理権」を持っているだけなのです。だから、「自分の所有物でないもの(自分の身体・命)を、自己決定で処分(死)しようとする」考えは間違っていると思います。

理由2 生と死を特定の時点で分けることはできない

かつては心肺停止をもって判断されていた「死」という線引きが、「脳死」という概念が登場したことで揺らいでいます。これは裏返して考えると、「人間の死を生物学的に判断する唯一の基準は存在しない」ということです。死とは「完全な生から完全な死に移行する自然現象」であり、このプロセスの途中のある時点を「自己決定」により死と決定することには、原理的な危うさを感じさせます。

生きているうちに「死の瞬間」を決めるのは問題がある

理由3 死は生物学的なものであるだけでなく、社会的なものでもある

「人の死」は自然現象であると同時に、社会的な出来事でもあるので、「死の基準」は統一されるべきだと思います。死んだ人は社会的なネットワークから除外されるので、死の基準や死の瞬間を個人が恣意的に決定するとややこしいことになってしまうからです。公的な死亡基準はなるべく一般の人たちのナイーブな感覚と矛盾しない方がいいでしょう。まだ生きているうちに自己決定で「死の瞬間」を決めるのは、この観点から見て大いに問題があると思います。

以上の三つの理由から、私は「人間には死の自己決定権がない」と考えます。この考えを敷衍ふえんすると、人から人への「臓器移植」も否定しなければなりません。「理由1」で説明したように、自分の身体や命は誰かに売買したり譲渡したりすることができるといった性格のものではないからです。