ファシズムが愛した「専門家」
【佐藤】私は、いたずらに危機を煽っているつもりはありません。実は専門家の重用というのは、ファシズムやスターリニズムの特徴でもあるのです。ナチス・ドイツは、専門家を最大限利用して、政策を遂行しました。
【池上】当時のドイツ国民の多くも、そのことにあまり違和感を覚えてはいなかったのでしょう。
【佐藤】一方、民主主義の下で行われるのは、あえて言えば「素人の政治」。だから、トランプ前大統領のような人物が出てくることもあるわけです。その「素人性」と「専門性」の折り合いをどうつけていくのか、どこで線を引くのかというのも、民主主義を考えるうえでは非常に大事なところのはずなのです。しかし、現実には、そんな議論は全部飛び越えて、事が進んでいる。
【池上】確かに、さまざまな情報が飛び交って、ある意味浮足立っている時だからこそ、「まてよ」と立ち位置を確認してみることが大事になりますね。
社会に増幅する「自由なき福祉」
【池上】オープンな議論が行われるはずの国会でも、コロナ対策については、主として政府側の不十分な答弁のせいであまり論点はかみ合わず、野党が要求した会期延長なども行われませんでした。他方、「官邸主導」で物事が決まり、行動の自粛を呼び掛けながら「Go To」を推進するという、ちょっと首をかしげたくなるような施策も「強行」されました。ちなみに、菅総理がずっと「見直しは考えていない」と言っていた「Go Toトラベル」は、突如2020年の暮れから一時停止となったのですが、この措置は、メディアの調査による内閣支持率の急落を受けたものであることが明らかでした。「民主的な経路」のところで議論を尽くすことはしないでおいて、「人気」が陰ると慌てて手の平を返す。率直に表現すれば、そういうことになるでしょう。
【佐藤】そうした状況が、常態化している。平時ではないということを割り引いても、私には健全な姿には見えません。
ドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスが、『後期資本主義における正統化の問題』で、こう言っています。
デモクラシーはもはや、あらゆる個人の普遍化可能な利益を認めさせようとする生活形式の内容によって規定されてはいない。それは、もっぱらたんに指導者と指導部を選抜するための方法とみなされている。デモクラシーはもはや、あらゆる正統な利益が自己決定と参加への基本的な関心の実現という道を通って満たされうるための条件という意味では理解されていない。それはいまやシステム適合的な補償のための分配率、すなわち私的利益を充足するための調節器ということでしかない。このデモクラシーによって自由なき福祉が可能になる。(『後期資本主義における正統化の問題』岩波文庫、2018年、223ページ)
日本の状況に照らせば、こういうことです。
国民のみなさんは、いろんな欲求をお持ちでしょう。我々権力者は、時に専門家の知恵も借りながら、それを叶えて差し上げます。それで文句はないでしょうから、どうぞ信じて任せてください——。
そういう「自由なき福祉」が社会に増殖して、逆に政治的な回路を通して民意を実現するということが、できにくくなっている。そのことを、コロナ禍が図らずも白日の下にさらしたように思うのです。