JALはフラッグ・キャリアとして世界のエアラインの仲間入りをした頃、ANAは日本のローカル線に傾注していた。国際路線を持たないANAとの収益構造の違いは際立っていた。

国際線を飛ばしたくても飛ばせなかった

エアラインの収益の要となるのが国際線だ。しかし、ANAが国際定期路線に参入したのは1986年。JALに遅れること32年が経っていた。「45・47体制」(航空憲法)による分業を強いられ、ANAは国内幹線と一部の国内ローカル線と近距離国際線チャーターの営業しか許されていなかったからだ。

その国際線チャーター便でさえ、設立19年後の1971年にようやくスタートした。輸送人数は初年度1万2000人、一方のJALは記録のある1970年で163万人、両者の差は大人と赤ん坊以上だった。

筆者撮影
JALのボーイング767-300型機

1985年に航空憲法が廃止され、ANAは1986年3月に初の国際定期路線として成田―グアム線を就航させた。使用機材は、317人乗りのロッキードL-1011トライスター。週4便からのスタートだった。

国際線に遅れて参入したANAは、就航地での知名度の低さも大きな課題だった。

1991年3月の成田―ニューヨーク線の初就航目前。ニューヨークタイムズの紙面広告に踊った文字は「OUR NAME IS ANA!」だった。運航管理業務を担った当時のANA社員は、次のように振り返る。

「当時はまだまだ小さな航空会社で、だれもANAなんて知らなかったんです。“OUR NAME IS ANA!”……。本当に恥ずかしいけれど、最初は名前を名乗ることから始めました」

これが国際線就航初期のANAの実態だった。

統合には「もう1社エアラインを作るほどの費用がかかる」

「現在窮乏、将来有望」の言葉以上に、社員たちに定着した言葉がある。社史『大空へ二十年』によると、それは「追いつけ、追いこせ」。もちろんその対象はJALだ。「いい空は青い」(2002年)、「きたえた翼は、強い」(2010年)のように、皮肉を込めた近年のキャッチコピーにもその姿勢がうかがえる。

2020年は東京オリンピック・パラリンピックと、インバウンド4000万人計画の波に乗り、ANAは一気にJALを突き放す戦略だった。それがコロナ禍の影響で2020年第3四半期の国際旅客数は、前年同期770万人から32万人(96%減)になった。ANAは「将来有望」を勝ち取った状況から、創業当時の「現在窮乏」に逆戻りした。

しかし同時に、復活の芽もある。世界で名だたる欧米の大手エアラインがリストラを敢行する中、ANAは雇用を守り続ける選択をしたことだ。ANA本体の社員は1万4830人であり、新卒の採用抑制、定年での自然減、早期退職を行うことで社員の雇用は守られている。