私のためになってません

さて、いよいよ「あなたのためを思って言っているんだよ」の解剖にとりかかります。

あらためて考えてみると、この言葉を言われていやな気分になるのは、かなり不思議です。たいていのことなら自分のためにわざわざしてくれたらうれしいはずなのに、「あなたのためを思って言っているんだよ」にはおそらくまったく喜べない。なぜでしょう?

まず、「あなたのため」と言いながら実は自分のためだから、という場合がありそうです。たとえば、子どもが一流大学に入ることを望んでいるように見えて、「一流大学に子どもを入学させた自分」という立場を手に入れたいだけの大人もいるでしょう。そんな本音が透けて見えたら、怒りたくもなるものです。

とはいえ、「あなたのため」と「自分のため」が重なっている場合もあります。保護者にとっての子ども、教員にとっての生徒は、幸せになってくれると自分も幸せになれる、そういう「あなた」であることも多いはずです(というか、多くあってほしいです)。「自分のため」成分が含まれているからといって、「あなたのため」成分がゼロになってしまうわけでもありません。

では、たしかに私のことを思っての言葉だと確信できれば、ダンス部に入ることをあきらめるのも仕方ない、と思えるようになるでしょうか?

私ならばなりません。だって、「あなた」のためを思って言っていることが、本当に「あなた」のためになるとはかぎらないではないですか。

ダンス部に入りたい人にとって、ダンス部に入ることは当然自分のためになることです。それをひっくり返すだけの根拠もなく「とにかく」したがえと言われても、納得はできないでしょう。「とにかく」のよくないところは、心変わりについての説明をこばむだけでなく、「あなたのため」に本当になっているかの説明をこばむ点にあるのです。

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足りない「根拠」を別のもので埋め合わせないで

でもちょっと待ってください。「とにかく」したがわせたいなら、なぜ「あなたのためを思って言っているんだよ」とわざわざ付け加えるのでしょう?

こう考えられないでしょうか。本当に相手のためになるか説明しない、あるいはできないからこそ、「あなたのため」だとわざわざ言うことで、足りない「根拠」のうめ合わせをしている、と。つまり、「こんなにあなたのことを思っている私の判断が、まちがっているわけはない」という心理が、「あなたのためを思って言っているんだよ」という言葉の後ろにかくれている可能性があるのです。

これは厄介です。「あなたのため」だからこそ、「あなた」に納得してもらう必要はない、ということになってしまいますからね。