「お母さんの命はあと10日ほどですが、延命治療をしますか?」
約3年前の梅花の頃、母が入居する老人ホームの訪問医から、私はこう告げられた。
「お母さんの命はこのままですと、あと10日ほどですが、延命治療をしますか?」
前年秋に腸閉塞の手術をした母はそれ以来、食が細くなり、1日の大半をベッドの上でボーっとして過ごしていた。認知症は明らかに進行していたが、私との会話は辛うじて成立していた。とても10日後に死ぬ人には見えなかった。
しかし、時は急を要する。訪問医の宣告で世界はひっくり返った。
命を助けてほしければ、今すぐ、救急車で大病院に運ぶ。運ばなければ、死ぬ。救命か看取りか、選択肢はふたつだ。命の決断は認知症の母ではなく、介護のキーパーソンである私に委ねられたのだ。
実は、母は、その日からさかのぼること1年半ほど前、日本尊厳死協会が行っている〈リビングウィル〉に加入していた。つまり「延命治療は望まない」という意思カードを持っていたのだ。ならば、普通は「お看取り」を選択となりそうだが、私は迷走し、決断できなかった。
「延命治療しない」とすぐに決断できなかった理由
その理由は今、考えると、下記のようなことだったと思う。
2 母への惜別の情
1について説明すると、こうなる。
以前から母は「体に管を付けないで!」と言っていた。それは、ベッドの上で病気の治療や救命処置のための管や電線などを体に取りつけられた入院患者を嫌というほど見てきたせいだ。
母自身も、認知症がさほど進行していない時に、病院側の意向で手にはミトン、腰には拘束ベルトという拷問生活を何度か体験したことがあり、それを本当に嫌がっていたのだ。
それゆえ、リビングウィルカードを無事に手にした私は、母が自分の意思で自分の最期を決めることができたと思い込み、満足していた。けれども、実際は母が100%決断したわけではなく、私が誘導した部分もかなり大きい。
母の「管を付けたくない」は「延命無用」という意味なのだと私は勝手に解釈し、「管を付けない=治療しない=死」という深いレベルでの意思を確認せぬまま、半ば強引にその書類にサインさせたようなところがある。
この機を逃せば、母が自著でサインすることはできなくなるという焦りもあった。ゆえに、十分な話し合いがなされ、母の本当の意思を確かめたとは、とても言えなかった。
母は昔から病院が大好きで、病院に行きさえすれば、魔法のように病は完治する。治らないのは病院に行く回数、あるいは医療者の技術が足らないのだというほど西洋医学信仰を持っているとしか思えないような人だった。それと矛盾するようだが、「管はつけないで治す」ということも母の“信仰”の延長線上にあったのだ。