先を見越せたのはやはり「私の履歴書」や「家族年表」を作ったからなのだろうか。栗原さんに「それにしても用意周到ですね」と聞くと、こんな答えが返ってきた。「確かにこの2つは大きかったと思います。ただ履歴書と年表は志を明確にし、決断をするための作業で、それを踏まえてマンションを買うなど実現のための準備は別の作業です。決断と準備のどちらが大変かというと僕の場合は準備でした」

何度も長崎へ通い、リクルート活動

大変だったという準備はまだあった。「会社を辞めた後の人生は、スポーツを通じて子どもたちの成長を応援したい」と志して将来設計をしたが、それをどこで実現するかを決めることだ。

キリン在職中、九州での生活が長かった栗原さんは42歳で長崎支社長に就任。約5年後の2005年秋に東京へ単身赴任したが、東京に移っても年に一度は長崎を訪れた。“帰省”の際に必ず会う人がいた。和食レストランや居酒屋、天ぷら専門店など、九州最大級の外食チェーン店を運営するフードプラス・ホールディングス(HD)を一代で築き上げた中村信機さんだ。

フードプラスHDの発祥は長崎で、キリン長崎支社にとっては最重要顧客の一つ。栗原さんは同じ慶應大学を卒業した先輩でもある中村さんと出会い、自身が会社を辞めた後の夢を伝え続けた。「その頃にはいずれ長崎に住みたいと考えていたんです。そこで夢を叶えることができれば良いと中村さんに話していました」と栗原さんは振り返る。

執行役員就任も、あっさり早期退職したワケ

2011年3月、栗原さんは再び東京本社勤務となり、CSR推進部長となった。企業には利益を追求するだけでなく、倫理的観点に立った活動を通じて社会に貢献する責任がある。そうした考え方に基づいて実際の活動を立案、推進するのがCSR推進部だが、就任直前に東日本大震災が起きた。

秋場大輔『ライフシフト 10の成功例に学ぶ第2の人生』(文藝春秋)

キリンが仙台に持つ工場が被災、震災直後には481人の地域住民と社員が事務棟屋上で助けを求めた。栗原さんは九州での仕事の引き継ぎもままならない中で対策本部事務局長に就き、社員の救助やその後の工場再開、地域の復興支援などに奔走した。

そうした活動がなお続いていた2013年、キリンはCSR活動をさらに高度化するためにCSV本部と呼ぶ組織を新設。栗原さんは傘下のCSV推進部長に就き、キリンホールディングスの執行役員にもなった。

しかしその2年後、栗原執行役員はあっさりと早期退職を選んだ。「『家族年表』に従えば、退職は2016年だったんです。しかし当初は留学するつもりだった次男が予定を変え、就職することになりました。その結果、子育てが1年早く終わることになったので、1年前倒しでビジネスマンを卒業しました」と、こともなげに言った。