単純な二項対立で描くマスコミ
菅の強権ぶりが突出し、あたかも霞が関の官僚たちが萎縮しているという報道が目立つが、霞が関は馬鹿ではない。時代の流れが「官僚主導」から「政治主導」へと変化していることくらい、当たり前に理解している。小泉政権から第1次安倍政権、そして自民党政権を追い落とした民主党政権の看板でもあった。
もっとも旧民主党は政権誕生後いきなり各省庁の局長以上の幹部に辞表の提出を迫ったあげく、霞が関からサボタージュパージされるという前代未聞の愚行をしでかした。旧民主党政権にかかわった者たちは口が裂けても、人事権を盾に政策を実行していく菅の手法に対して「霞が関が委縮している」などとは言えないはずだ。
菅首相が嫌う官僚像の3タイプ
一方で、菅の考える「政治主導」とは何か。ある側近の話では、菅はどんな仕事でも決して官僚任せにはしないという。どれほど信頼する相手でも、「あとは頼んだ」「よきに計らえ」ということがない。その強烈な危機管理意識の高さがあったればこそ、安倍政権は7年8カ月の長きにわたり、政権を維持することができた。
つまり、菅はそれだけ自己責任意識と警戒心が強い。政治家は国民から選ばれた時点で民意の体現者であり、国民の幸福のために政策や方針を打ち出し、最後まで全責任を負うと本気で考えている。総理になってもその姿勢はまったくかわらない。
したがって、菅の嫌う官僚像もはっきりしている。分をわきまえず、国家を動かしているのは自分たちだと勘違いしている者、政治家にすり寄って省益を追求しようとする者、その手段として面従腹背する者だ。私は前出の二人の局長に、人事によって霞が関をコントロールする、官房長官時代の菅の手法への率直な思いを尋ねてみた。
再び拙著から引用する。
「内閣人事局の権能や、菅官房長官の霞が関人事の差配について批判する向きもありますが、そもそも内閣人事局がなくとも局長以上の人事は閣議承認事項であったわけですし、菅官房長官自身も、政権として責任をもって政策を実行していくために人事権が行使できないのはおかしいとの見地に立っていました。そして、菅さんの人物眼に恐れ入るものがあることも事実です。個別に人事をやりすぎだといった批判が残る場面もあったかもしれないが、合理的な人事権の行使であって、決して人事権の濫用ではありません」