愛着のあるモノを清算したい時、寺社の儀式が機能する

クラウド名刺管理サービスを提供するSansan(本社:東京都渋谷区)は、2017年に20〜50代の会社員、自営業者、公務員ら297人を対象に「名刺と処分に関するインターネット調査」を実施している。回答では、平均1383枚の名刺を所有しているものの、全体の92%が名刺を捨てられないとしている。名刺を捨てられない理由として、「今後の活用のため」が40%、「相手に失礼だから」が38%と拮抗きっこうしている。

そこでSansanでは、名刺を手放すきっかけを与えようと、2015年から東京・お茶の水にある神田明神(正式名・神田神社)で「名刺納め祭」を実施している。私も2018年に参加した。

撮影=鵜飼秀徳
神田明神で実施されたSansanの名刺納め祭

神殿にて名刺の奉納と祈祷が行われ、神職によって祝詞が奏上。Sansanの社員や参加者らは恭しく耳を傾け、不要になった名刺と玉串を奉納する。そうしてようやくスッキリとした心持ちで不要な名刺を破棄できるのだ。

こうした不思議な日本人の供養心は、いったいどこから、生じるのか。私は「人間と対象物」との間に意識的な関係性(ストーリー性)が生じるとき、供養の対象になっていくと考えている。

「愛着」という言葉にも置き換えられるかもしれない。逆に、「意識的な関係性」が生まれないような、「大量消費物」に愛着を見いだすことは難しい。成人式の時に親からつくってもらった実印は捨てられないが、100円ショップで買った三文判は躊躇なく捨てられる。大きな商談が成立した相手の名刺はずっと残しておきたいが、顔も思い出せない挨拶に訪れただけの営業マンの名刺はシュレッダーにかけられる――などの例であろう。

そのモノにストーリーが込められているかどうか。愛着のあるモノを清算したいと考えた時、寺社の儀式が機能する。日本人は断捨離の中に、宗教的機能をうまく取り込んできた。

生物だけではなく万物の死を悼み、弔っていく行為は、豊かな想像力がなしうること。モノに思いを馳せることの大切さ。それがいまの閉塞社会に求められているようにも思う。モノ供養の美風が現代社会に広く吹き渡れば、より優しい社会になっていくことだろう。

関連記事
「勝手に金ピカにされそう」対馬から盗んだ仏像を頑として返さない韓国の非常識
「ハンコ廃止はハンコのためだけに非ず」日本の押印文化が抱える本当の問題点
「地域の目が怖い」10月1日から東京人への露骨な入店拒否が増える
橋下徹「なぜ菅改革はこんなにスピーディなのか」
「円周率とは何か」と聞かれて「3.14です」は大間違いである