今回のことで学問の自由が死ぬなら、我々はもう死んでいる

換言すると、本来、広く社会にも役立つはずの教育研究環境の表層が政治的理由からまな板に乗せられているようにすら見えてくる。このとき、教育研究環境の「自由」というか現状の実質をどのように擁護し、改善を求めていくのかということを主眼にするのであれば、ただ反対の声を挙げるのみならず、より個別具体的な論点に落とし込んだ議論と社会からの理解を求める作業が必要に思えるのだ。

また高等教育研究の当事者にいるものとしては、現状を考慮すると日本学術会議の問題の行くすえ如何程度では、学問や研究、表現はそう簡単に死なないということは矜持か、カラ元気として最後に申し添えておきたい。もし今回のようなことで学問の自由が死ぬのであれば、“我々はもう死んでいる”と言わざるを得ないし、言い方を変えると、これまで学問の自由が生きていたとするなら、学術会議の任命権の有り様を変更したぐらいではやはり学問の自由は死なないともいえる。

そういう大文字の議論も良いが、研究者にとっての本丸は、研究教育を取り巻く誤解の払拭と早急な実態の改善にこそあるはずだ。そして、それらをせめて維持、できれば改善するために社会、経済、政治の理解を得ることこそが重要に思えてくる。大学に勤める、一研究者としてはそのことを知ってほしい。現状批判も重要だが、ときに誤解に基づいて我々が見られているのだとすれば、当事者が冷静にその誤解を改善する説明や対話を重ねることも重要ではないか。筆者はどちらかといえば、そちらに与したい。

学問の自由云々や、また太平洋戦争下の話も持ち出されがちだが、戦争のさなかですら、丸山眞男も、小林秀雄も生き延びて、仕事を続けた(三木清は獄中死したが……)。それらと比べれば、やはり大した問題ではないのだ。

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