「学問の自由の生死」を考えるだけでは大学は死ぬ
ガバナンスに関しても、学長選挙は学長選考会議の事項となり、教職員投票の結果も、参考に留められるようになった。確かにルールとして定められているが、腹落ちはしにくい仕組みだ。教授会は意思決定機関ではなくなり、学長直下に権限、ポストが集約される傾向が続いている。大学の機能分化や統廃合、実用学部への再編、定員の在り方などが、それぞれ補助金と絡めつつ、上から「自発的に要請」され、私立大学などにも強く要求されている。小渕政権下で成立した国旗国歌法は粛々と運用され、大学でも国旗の掲揚、行事における国歌斉唱は概ね所与のものとなって久しい。
これらを総合的に考えるとき、もはや今回の問題を「学問の自由」の生死なる大雑把な概念で考えるだけでは、上述したような日本の高等教育研究開発環境が置かれた状況の改善どころか現状維持にすらつながらないように思われる。
任命拒否の判断は「思いつき」とは思えない
政府、自民党はPTを妙に迅速に立ち上げ、来年の通常国会に「改革」案なるものを出すとしているから、準備や議論の期間がとにかく短い。思いつきか、布石かでいえば、後者のように見えてくる。
それらの背景には、中曽根元総理の合同葬儀に際しての、大学への弔旗掲揚依頼含めて、安倍前総理と比べて、はっきりとした保守的言説をあまり聞かない菅首相の保守・復古層へのリップサービスがあるのではないか。保守・復古層の言説や認識では、大学や研究機関は左翼の巣窟なので、そこを締め付けることは彼らに喝采されがちだ。
それから、国家予算100兆円の世界観からすれば、日本学術会議の予算10億円はもはや誤差の世界だが、それでも衆議院議員の任期を考慮すると、来年秋までには実施される総選挙の、わかりやすい手土産と改革の「実績」を作ることに関心がありそうにも思えてくる。