突然死ぬかもしれない意識が希薄。リスクゼロでないと安心できない

これは、僕が極夜の闇の中で現在地がわからなくなったときの不安と、かなり近いものがあるように思います。

確かに、探検のような“期間限定”ではなく、日常的に死と隣り合わせの状態で生きるのはキツイことだと思います。もしも50%の確率で死ぬかもしれないという状況下で日々を暮らさなければならないとしたら、これは相当にキツイ。深刻にならざるをえません。

その一方で別の言い方をすれば、現代社会では死があまりにも遠いものになってしまったとも感じる。人間には突然死んでしまうことがありうることを意識しながら生きるという生活態度が現代人には希薄なのです。だから、リスクがゼロにならないと安心できず、過剰な対策に走ってしまう。

撮影=市来朋久

僕は、コロナで絶対に死なないと確信しているわけではありませんが、死んだら死んだで仕方ないかなとも思います。その感覚は交通事故とあまり変わらない。交通事故でも年間3000人以上が亡くなっていて、コロナより多いわけですが、我々はあまり意識していません。

完全に逃げ切ることができない以上、どこかでコロナで死ぬ可能性を引き受ける覚悟も必要なんじゃないでしょうか。マスクも、着ける意味を感じないときは外しています。

コロナ禍だからこそ重要な学校の機能は「人が集える」こと

幸いなことに、僕が暮らしている地域はコロナに対して緩いというか、過剰に神経質になっている印象はありません。娘は登校時、マスクを持っては行きますが、家を出るときや友達と外で遊ぶときは着用していません。

改めて学校の機能って何だろうと考えてみると、特に小学校低学年に関して言えば、「友達が集まって遊ぶこと」も重要ではないでしょうか。効率的に学力をつけたければ塾に行けばいいし、問題集を買ってきて自学したっていい。でも、友達とワイワイ遊べるのは、今の時代、学校だけです。学校の最も重要な機能は、まさに「集まる」ことにあるのではないでしょうか。

この集まるという機能を、いくら非常事態だからといってシャットオフしてしまっていいのでしょうか。国語や算数の勉強は後からいくらでも補うことができるけれど、思い出は後からつくることができません。そして、学生時代にどんな友達と何をして遊んだかは一生記憶に残るものです。