電波は限りある資源
放送というのは、要するに映像や音などのデータを電波の形に変えて、遠くまで送り届けることだ。何しろ電波というのは、ケーブルなどの設備を必要とせず、光のスピードで遥か遠距離まで届くから、通信にこれほど便利なものはない。
電波は、周波数によってそれぞれ届く距離や運べるデータ量が異なる。このため、携帯電話やAM・FMラジオ、アマチュア無線など、用途によってそれぞれ適した周波数の電波が用いられている。また、みなが好き勝手に電波を飛ばすと混信してまともな通信ができなくなるから、国際規約や電波法などによって、使用可能な波長は厳密に取り決められている。要するに、電波というものは土地などと同じように限りある資源であるから、取り決めの下でうまく分け合って使いましょうということになっているのである。
たとえばラジオの中波放送(いわゆるAMラジオ)には、日本では531キロヘルツ~1602キロヘルツの周波数を持った電波が用いられている。かつてはこれを10キロヘルツずつ刻んで各放送局に割り当てていたが、1978年以降は国際規約の変更により、これが9キロヘルツごとになった。このため日本のAMラジオ局の周波数は、TBSラジオが954キロヘルツ、文化放送が1134キロヘルツ、ニッポン放送が1242キロヘルツといったように、みな9で割り切れる数字になっている。中途半端な数字には、こういう意味があったのだ。
1953年は日本にとって「テレビ元年」だった
というわけで、本題であるテレビの歴史を追ってみよう。他に先駆けてテレビ放送を研究していたのはやはりNHKで、1953年の放送開始を目指していた。しかしその独走に待ったをかけたのが、読売新聞社社主の正力松太郎であった。読売新聞は1951年元旦の社告でテレビ放送の開始をぶち上げ、資金調達に乗り出す。
両者は競い合いながら、1952年に放送予備免許を獲得する。翌1953年2月にはNHK、8月には日本テレビも本放送を開始し、日本にとって記念すべきテレビ元年となった。この翌年には力道山が登場してプロレスブームが巻き起こり、一挙にテレビ時代が加速していく。
さて、チャンネルの割り当てはどう進められたのだろうか。当初、超短波(VHF)のテレビ放送に割り当てられた電波は、合計6チャンネル分であった。だが、このころ1チャンネル(90~96メガヘルツ)と2チャンネル(96~102メガヘルツ)は在日米軍が使用していたため、利用可能なのは3~6チャンネルのみという状況であった。