二・二六事件で「主役」になったラジオ

新聞とラジオの報道合戦は新聞が優位に展開していた。その立場が逆転する直接のきっかけとなったのは、1936(昭和11)年の二・二六事件だった。それまでラジオのニュース報道は、通信社と新聞社が提供する内容をラジオ向きに取捨選択、編集したものにすぎなかった。そこへ二・二六事件が起きる。ラジオ局の担当者は警視庁や陸軍省に飛んで直接、取材を始める(丸山鐡雄『ラジオの昭和』)。速報性に優るラジオが報道内容も独自性を持つということになれば、新聞とラジオの報道合戦の勝者は自ずと明らかだった。

事件を知ったラジオ局内は混乱する。娯楽番組の扱いをめぐって意見が対立する。非常時だから遠慮すべきとの考えがあれば、娯楽番組を放送しないとかえって国民に動揺と不安を抱かせるとの自粛への反対論もあった(同書)。

結局のところ翌日午前の通常放送はすべて中止となり、午前8時半すぎにアナウンサーが戒厳司令官布告の「兵に告ぐ」を読み上げた。事件は収束に向かう。陸軍大臣が事件の鎮圧の声明を発表したのもラジオだった。

ラジオで人気者になった近衛首相

軍部はラジオを事件鎮圧の手段として利用した。そうだからといって、軍部によるラジオの政治利用を非難することには躊躇を覚える。当時の日本は、世界恐慌からの脱却に成功して、明るい日常生活と消費文化が花開いていた。経済的な豊かさと社会の安定を享受していた国民は、事件の鎮圧を求めていたはずだからである。

喜劇役者の古川ふるかわロッパは、29日のラジオのニュースで、午後二時頃には事件が鎮圧されたと知る。午後四時頃になると、丸の内あたりの交通も復旧する。午後六時すぎには丸の内の日劇や日比谷の映画館もニュース劇場も興行を再開する。映画街にどっと人が繰り出す。ロッパはこのような様子から「平和である」と記す。この日、ロッパは銀座で夜更けまで酒を飲んだ。国民はクーデタが不首尾に終わって安堵した。

ラジオの機能を巧みに利用した首相が近衛文麿である。1937(昭和12)年6月4日に組閣すると、この夜、近衛はラジオ放送「全国民に告ぐ」をおこなっている。組閣当夜の首相のラジオ放送は、日本の歴史上はじめてのことだった。

ラジオは近衛をカリスマに祭り上げる。近衛の正伝は当時の状況を活写する。「近衛があの弱々しい感じの口調でラジオの放送などすると、政治に無関心な各家庭の女子供まで、『近衛さんが演説する』といって、大騒ぎしてラジオにスイッチを入れるという有様だった」