戦時中も娯楽番組を求めた国民

ほどなくして7月7日、盧溝橋事件が起きる。日中戦争が拡大する。この年、ラジオの普及率が急伸している。都市部の普及率は48.2パーセント、郡部でも14.3パーセントになった。聴取者は連戦連勝の公式情報に接していただけではなかった。「戦死傷者の中に知人がいないかと耳をすますようになった」。ラジオは安否確認の情報源だった。

戦時下の国民がラジオに求めたのは安否確認だけではなかった。この年度の聴取状況調査によれば、聴取率75パーセント以上の番組は、浪花節、歌謡曲、講談、落語、漫才、ドラマなどだった。国民はラジオに娯楽を求めていた。軍部がラジオを戦意高揚の手段としても、大衆娯楽を求める国民世論を無視することはできなかった。ラジオは双方向性があるメディアだった。

恐るべき「投書階級」の登場

大衆娯楽に対する統制の実態は、近年の研究(金子龍司「『民意』による検閲―『あゝそれなのに』から見る流行歌統制の実態」『日本歴史』794号、2014年)によって、既存のイメージがくつがえされつつある。

盧溝橋事件が勃発した年にやっこの歌う流行歌「あゝそれなのに」が大ヒットする。ところがこの流行歌は取り締まりの対象となり、放送禁止措置を受ける。検閲当局を動かしたのは民意だった。民意とは「投書階級」のことである。

ラジオ局の日本放送協会は、投書を受け付けていた。投書は番組編成に影響を及ぼす。ラジオ局に投書をするのは、都市化の進展とともに現われた新中間層(官公吏、教員、会社員など)だった。「投書階級」とはエリートでもなく大衆でもない「亜インテリ」(丸山眞男)のことでもあった。

「投書階級」の影響力は強かった。たとえば1938(昭和13)年のラジオの聴取者の投書は約2万4000件だった。ラジオ局の番組編成と放送の担当者は、これらの投書を一件ずつ閲覧して、実行可能であればできるだけ番組に反映させることになっていた。