満州事変で180度転換したメディアの論調

他方で戦争を煽った加害者としてのメディアの責任を指摘する研究は、満州事変の勃発を重視する。満州事変をきっかけとして、メディアの論調は180度の転換を遂げる。

たとえば『東京朝日新聞』と『大阪朝日新聞』は満州事変支持のキャンペーンを展開する。新聞社による慰問金募集の社告や号外・ニュース映画・展示会・慰問使派遣・特派員戦況報告講演会などがおこなわれる。戦争報道に関する古典的な研究の江口圭一『十五年戦争の開幕』(小学館、1982年)は、「これをも言論抑圧のやむをえない結果と称するとすれば、それは詭弁というものであろう」と批判している。

最近の著作も同様である。たとえば筒井清忠『戦前日本のポピュリズム』は一つの章を「満洲事変とマスメディアの変貌」に充てて、新聞論調の「大旋回」を跡づけている。

新聞各紙は速報合戦をくりひろげる。満州事変速報は新聞の部数を伸ばす。満州事変前後で朝日新聞は約27パーセント部数が増えている(筒井清忠『昭和戦前期の政党政治』)。

ラジオという新しいメディア

新聞のライバルは同業他社だけでなかった。新聞が号外を連発して速報に努めたのに対して、ラジオもライバルだったからである。

満州事変はラジオの速報機能を際立たせる。柳条湖事件の翌朝、1931(昭和6)年9月19日午前6時30分、ラジオ体操の時間に飛び込んできたのは、満州事変の勃発を速報する臨時ニュースだった。1925年に3500世帯の受信契約数から始まった民間ラジオ放送は、満州事変勃発の翌年には受信契約数が100万を超え、1935年には200万台に至る。同年の全国普及率15.5パーセント(東京は47.8パーセント)に隣家からの「もらい聞き」などを含めれば、ラジオ放送の急速な普及状況がわかる(佐藤卓己『現代メディア史 新版』)。

ラジオが満州事変熱を煽ったことはまちがいない。日本放送協会の当時の番組編成基本方針は言う。「ラジオの全機能を動員して、生命線満蒙の認識を徹底させ、外には正義に立つ日本の国策を明示し、内には国民の覚悟と奮起とを促して、世論の方向を指示するに努める」(江口、前掲書)。ここでは「満蒙」権益擁護の観点から満州事変の拡大が正当化されている。