※本稿は、井上寿一『論点別 昭和史』(講談社現代新書)の一部を抜粋、見出しなど再編集したものです。
メディアは被害者か加害者か?
新聞やラジオなどのメディアが戦前昭和の政治社会に及ぼした影響は、評価が二分されている。一方ではメディアは国家権力によって弾圧された被害者であり、他方では戦争を煽った加害者である。ほんとうはどちらが正しかったのか。
被害者としてのメディアの代表的な事例を挙げる。1933(昭和8)年8月の『信濃毎日新聞』の論説記事である。この年の8月9日に関東防空大演習がおこなわれる。2日後、主筆の桐生悠が「関東防空大演習を嗤う」と題する軍部批判の記事を書く。「かかる架空的な演習を行っても、実際には、さほど役立たないだろうことを想像するものである〔……〕敵機を関東の空に、帝都の空に迎え撃つということは、我軍の敗北そのものである」。
激怒した軍部は、在郷軍人組織を動員して桐生らの退社と謝罪を要求する。不買運動も展開される。2カ月後、桐生は退社させられる。
今日においてもっともよく読まれている昭和史の本の一つ、半藤一利『昭和史 1926‐1945』は、桐生の先見の明を高く評価する。「日本の上空に敵機が来て爆弾を落とすようなことになれば、日本は勝てるはずないじゃないかというのは、非常に妥当な意見だと思わざるを得ません」。なぜならば事実、そうなったからである。
同時に同書はつぎのようにも指摘する。「ここで大事なことをひとつ付け加えますと、すでに厳しくされていた新聞紙法に加えて、昭和8年秋、9月5日に出版法が改正されたのです。〔……〕実はたいへんな『改悪』で、これ以降、当局が新聞雑誌ラジオなどをしっかり統制できるようになり、それは次第に強められていきます」。このとおりだとすれば、「関東防空大演習を嗤う」事件をきっかけとして、国家権力による言論統制が強化されたことになる。