バカが直接、罵詈雑言を投げつけてくる恐怖

単なるストーリーを「ガチ」だと思い込むような、メディアリテラシーの低いバカが多いことから、今回のような悲劇が生じた側面は否めない。SNSが普及する前であれば、ここまで低レベルのバカが公共の場で発言することなど、ほぼ許されなかった。また、プロとして一定の評価を得ている人物に向けて、直接、罵詈雑言を投げつける手段も存在しなかった。そうした環境が、世界に安寧をもたらしていたのだ。

芸能人やスポーツ選手であれば、以前は所属事務所や所属組織の工夫ひとつで、彼らを罵詈雑言から守ることができた。タチの悪い手紙やメールが届いたとしても、事務所が防波堤となり「本人には見せない」という手段を取れば、その内容がストレートに伝わることはなかったのだ。だがSNSの場合は、バカが直接襲いかかってくる。

想像してみてほしい。スマホの通知音が「ポーン」と鳴り、「あ、番組を見た友達が感想を送ってきてくれたかな」「『楽しかったよ!』『頑張ってね!』という応援かも」などと思いながら開いてみたら、「テラハから出て行け!」「オマエだけは絶対に許さない!」「死ね!」といった言葉が有象無象から間断なく送りつけられる。そんな状況は、わざわざ説明するまでもなく、地獄である。

「批評、批判」と「罵詈雑言、誹謗中傷」はまったく違う

今回のような事件に触れると、改めて「あぁ、人間って本当に成長しないし、本当に自分本位で強欲な生き物なのだな」とウンザリしてしまう。

別に批評、批判をすること自体は悪いことではない。批評をする自由は誰にでもある。ただ、以前であればお茶の間や居酒屋など、ごく少数の身近な人々の間でしか口にされなかったような低次元の批評や批判が、インターネットの普及以降、とりわけSNSの普及以降は大きく拡散するようになってしまった。

「ブス」「デブ」「キモい」「バカ」などの言葉が私的な場で持ち出されることは、まったく問題ない。「プライベートな場での誹謗中傷の制限」なんて法律ができたら、それこそ超絶管理社会の到来であり、決して認めることはできない。

誰でも自由に発言できること、議論に参加できることは、ネットの大きな特徴であり、利点でもある。それを否定する気はない。ネットを介すれば、これまで目を向けられることがなかった権力を持たない者、知名度や影響力を持たない者、世間に埋没していた弱い者の声を、多くの人に届けることが可能になった。それが一定の世論を形づくったり、ムーブメントとして拡大し、世の中を変えたりしたこともある。「保育園落ちた日本死ね!!!」や「#検察庁法改正案に抗議します」はそのわかりやすい例だろう。悪いことばかりではないし、「力のない者は黙れ」といいたいわけでもない。誰だって批判や批評はしてもいい。

とはいえ、「批評」「批判」と「罵詈雑言」「誹謗中傷」は別なのである。作品の出来栄えについて、冷静に批評や批判をするのはまっとうだ。しかし、感情的になって「死ね」「ブス」「消えろ」といった言葉を直接本人に寄せるのは、もはや罵詈雑言や誹謗中傷という、悪事のレベルである。