批判も介さない簡明な九州男児

ワシントンから帰国した後、商務部長という霞が関相手の部隊長となった。通産省が新たな成長の芽を育てるべく、次々にITプロジェクトを打ち上げていた。そのアイデアを提供し、プロジェクトに参加する。日本は「失われた10年」と呼ばれた時期で、電子商取引やネット調達などの実験への参加は、元気のない社内各部門にとって「干天(かんてん)の慈雨(じう)」となる。社内外に「亜流のビジネス手法だ」との批判も出たが、意に介さない。苦しい状況を乗り越えるために、できることはやる――人間を単純に分類してはいけないが、九州男児によくみられる「前向き」の簡明さを、野副さんも持っていた。

「現代ロケットの父」と言われるロバート・ゴダード博士に「昨日の夢は今日の希望、そして明日の現実」との言葉がある。これまでの苦労は今日の力の糧となっており、いまの苦労や辛さは明日への準備となる。若い研究者への励ましだが、博士の実感なのだろう。あるとき、この言葉を知って、好きになる。前向きに挑む気持ちを持ち続けていれば、やがて「夢」のように遠くにあったことでも、現実になる。そんな「プラス思考」が、自分に合ったからだ。

2008年6月、社長に就任。その6年前、富士通は3800億円もの最終赤字に転落した。SEと営業がばらばらに動き、不採算な受注を重ねたうえ、お客の手直し注文をタダ同然で受けざるを得ず、赤字が雪だるまのように増えていた。前任社長の黒川博昭氏は、SEと営業の融合を図り、不採算受注の洗い直しを急ぐ。その指揮官役を頼まれる。

心を鬼にして、担当者を問い詰めた。場所は個室の自室ではなく、かつての部下がいる大部屋を借りた。何を尋ねても、担当者たちは「やっています、やっています」とごまかそうとしがちなものだ。そんな目を前からそらすような言葉ほど、嫌いなものはない。「出ていけ」「会社をつぶすのか」と口から出た。怒鳴り声は、部屋じゅうに響く。となれば、答えるほうも、ごまかしもお世辞も言えない。厳しい役だったが、清算は一気に進む。ただ、この時点でも、社内のSEや営業の間では、次期社長の候補と思っていた人は、ほぼいない。あくまで「亜流」の黒衣育ち、としかみていなかった。

見落としていたのは、40歳を挟む約20年間、野副さんが身につけていた「グローバル感覚」だ。富士通は、いま、活路を「サービスビジネス」に見出そうとしており、その場を世界に広げつつある。技術系でもSE出身でもない社長は、実に32年ぶり、海外勤務の経験がある人間がトップに立つのは初めてだ。

自身さえ考えたことがない登板だったが、時代が舞台を回していた。

(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)