当時の光秀のよきライバルといえば、豊臣秀吉だろう。ライバルとはありがたい存在だと思う。王貞治というライバルがいたおかげで、私は657本ものホームランを打つことができた。喜びと悔しさを味わうことができる存在は、自分自身を成長させることができるものだ。

江戸時代に書かれた書物の中に、光秀と秀吉を比較したものがあり、2人は対照的に描かれていた。光秀は謹厳実直でいつも慇懃な姿勢を崩さなかった。一方、秀吉は豪放磊落で、それゆえ傲慢だったと書かれている。

光秀と秀吉の共通点は、織田家臣団の中では転職組だったことだ。雑用係から出世した秀吉と、優秀な人物としてスカウトされた形で家臣となった光秀。信長は、転職組として同期の光秀と秀吉を競わせた。2人は互いに競いながら、信長の「天下布武」を実現させようとしたのである。ライバル意識をうまく利用したわけだが、もし信長が門閥主義、年功序列の人使いをしていたら、光秀と秀吉は早く出世することはなかっただろう。ここに信長の人使いの妙を見ることができる。

監督時代、野村氏は数多くの選手を育てた。写真は1997年の日本シリーズ。(時事通信フォト)

信長に認めてもらうために、光秀はさらに実績を上げる必要があった。そのために、己の家臣団を早急につくり上げなくてはいけない。家臣団をまとめ上げるために奔走する光秀の気持ちは、1989年にヤクルトスワローズの監督を引き受けた際の私の気持ちに通じるものがあるように思う。

当時のスワローズは、決して強い野球チームではなかった。私はこのとき、どうすれば強いチームに勝てるかを真剣に考えた。

野球はチームで戦う。必要なことは主役と脇役のバランスがとれたチームづくりだった。だから、選手たちも決して4番やエースになれないからといってやる気をなくす必要はない、と説いた。自分の勝てる場所を見つけて、そこで勝負することだと語った。これだけは誰にも負けないという自分自身の強みをつくれと勇気づけた。

光秀の家臣団であれば、鉄砲隊の充実である。織田軍団の中で、鉄砲隊の強さは、光秀軍と滝川一益軍が群を抜いていた。こうした強みをつくれば、チームも個人も道が開けていく。こうして光秀の家臣団は、5年にわたる丹波攻略を通じてチームワークを発揮し、天下を狙う軍団に育っていった。

川上哲治に見るリーダーの資質

はたして、光秀はどんなリーダーだっただろうか。秀吉のように派手な立ち回りをするパフォーマンスに優れたリーダーではない。沈思黙考で思慮深いタイプのリーダーである。

監督時代に私が得た教訓は、リーダーが考えていることは、言葉に出さなくても、知らず知らずのうちに選手たちに伝わるものだということだ。真のリーダーとは、一時も気が抜けないし、抜いてはいけないのである。