「なぜ誰も振り向いてくれないんだ」という悲しい叫び
さて。
絡んできた方が「高学歴」「定年退職」「フォロワーの数が少ない」という点を再度考慮してみます。
高学歴で定年退職というと、老後もある程度保証されたご身分のはずで、暇な時間があるからこそSNSに向かうこともできるのでしょう。そして「フォロワーの数」は、「ネット内における発言の影響力」の数値化・可視化でもありますので、その絶対数が少ないイライラ感が、芸人の発言やら経験値が低いと判断した若い女性の書き込みに向かうのでしょう。
心の中には、「いろんな意味で物事を知っているはずの上位に位置する俺の言葉に、なぜ誰も振り向いてくれないんだ!」という悲しい叫びが聞こえてきそうな感じがしますよね。あ、無論これらは私の仮説から派生するたんなる想像です。人物を特定しているわけではありませんのでくれぐれも噛みついてこないでくださいね(笑)。
たとえばツイッターは、私個人としては「顔も見えない中での落語会の案内、ギャグや新刊などの紹介のためのウインドウショッピング」としてとらえています。一方、フェイスブックは「一見さんお断り」システムを取っていまして、「一度でもお会いしたことのある方との茶飲み会」のような感じに差別化しています。
「本場イギリスのアールグレイは日本と全然ちがう」
そんな内輪の茶飲み会で「やっぱりアールグレイは美味しいね」とみんなで話したことに対して、見ず知らずの通りすがりの方が「私は本場のイギリスのカフェで飲んだことがありますけど、日本のアールグレイとは全然ちがいますよ」みたいな発言はやはり不要なのです。そんな野暮な発言には「紅茶の話だけど、セイロン(正論)はお断りします」というしかないのです(笑)。
ま、こういう「かぶせおじさん」の出現は、本屋さん回りをすれば、しみじみ仕方ないのかなという気分にもなります。だってビジネス書や自己啓発本コーナーには、「自分の個性の演出の仕方」とか「上手な会話術」といった「発信者側」の立場しか考えていない書籍だらけですから。
現代の「俺が俺が」という風潮の犠牲者なのかもしれませんなあ。被害者だと思うと許せる気分も少しは芽生えます。ましてやこの新型コロナウイルスのせいで、外に出て大手を振って歩いてゆけない閉塞感があるのですもの、なんとなく「かぶせおじさん」に同情したくもなりますなあ。
ここまで書いてきてなぜ「かぶせおじさん」に辟易するのか、その理由に気づきました。それはコメントを発した際の「ドヤ顔」なのです。ベタなダジャレや誰もが気づいている正論や常識をくり出した際に、「どうだ!すごいだろ」というご満悦顔が浮かんでくるのがイラつかせるのでしょう。
これは自戒を込めたいと思います。
「上手いことや面白いことを言った時、自分もこうなっているかも」と自己チェックする姿勢は肝心なのかもしれません。人間って「されたことをしてしまう」悲しい生き物なのです。
では、そういうおじさんにならないようにするためには、どうしたらいいでしょうか?