新型コロナで既存仏教教団が過剰に「自粛」に走るワケ
ところが新型コロナウイルス流行において、既存仏教教団の対応はこうした歴史とは正反対だった。
浄土宗総本山の知恩院では4月13日から開催予定であった、国宝御影堂落慶法要の中止措置を発表した。知恩院御影堂大修理は380年ぶり、9年間におよぶ大事業であっただけに、中止は大きな話題となっている。
また、毎年数千人が参列する東本願寺の「春の法要」(4月1日〜4日)についても、一般参列者を入れない僧侶による読経のみとした。東京の築地本願寺も3月以降、法話や各種講座などが軒並み中止。調布市の深大寺でも4月から5月にかけて実施予定だった秘仏元三大師像のご開帳が秋に延期になっている。
全国の末寺でも法事の中止が相次いでおり、ある京都の寺院は、「回忌法要などはしばらく檀信徒の参加を受け付けず、僧侶のみの読経で済ます」という。3月の彼岸会を中止する寺院も出てきている。こうしたに「自粛ムード」は仏教界だけでなく、宗教界全体に広がっている。
日本の寺社において感染が拡大するリスクは小さいと考えられる
これまでどちらかといえば、既存宗教は良くも悪くも社会の動きに「鈍感」であった。しかし、コロナウイルス騒動においては、びっくりするほど行動が早い。仏教界の場合、わずか数人規模の法要も中止されているうえ、5月の仏事の取りやめも起きている。宗門の議決機関である宗議会の短縮措置も取られ始めた。
だが、一律に自粛すれば、社会不安を煽ることになってしまう。宗教界が社会パニックに取り込まれてしまってはいけない。そうではなく、社会に不安が蔓延する中、心の平安を取り戻すための「祈り」や「寄り添い」を行うのが宗教界の役割ではないだろうか。
政府の専門家会議は、3月9日に「新型コロナウイルス感染症対策の見解」という文書を出し、これまで集団感染が確認された場の共通点として、①換気の悪い密閉空間であった、②多くの人が密集していた、③近距離(互いに手を伸ばしたら届く距離)での会話や発声が行われた、という3つの条件をあげ、これらが同時に揃う場所や場面を避けるように呼びかけている。
この文書を踏まえると、韓国の事例とは異なり、日本の寺社において感染が拡大するリスクは小さいと考えられる。多くの寺院は空間が広く、和の空間なので戸を開けば十分な換気ができる。また、法要中はおしゃべりをすることもない。墓参りなども「濃厚接触」に当たるとは思えない。文部科学省も「子どもが公園で遊んだり、散歩などは問題ない」という見解を示している。地域の寺院での小規模な法要や仏事のリスクは、「公園遊び」や「散歩」と同程度と考えてよいのではないか。
地域の寺はこうした状況だからこそ、人々に門戸を開いてほしい。