100万人以上が死亡の8世紀の天然痘は遣唐使がウイルスを蔓延させた

仏教が日本に伝来したのが6世紀にさかのぼる。百済の聖明王から、1体の仏像がもたらされた。時の欽明天皇は、臣下に仏教受容の是非を問うた。その時、仏教の受容派が蘇我氏であり、排仏派が物部氏であった。

だが、にわかに疫病が蔓延した。すると、物部氏は「外国の神をまつったせいで疫病が流行はやったのだ」として、渡来した仏像を運河に投げ捨てた。

これを発端にして蘇我氏・物部氏の争いが過熱。蘇我馬子・聖徳太子の手によって物部氏は滅ぼされ、仏教興隆の詔が発せられた。以降1500年以上にわたって仏教が、わが国に土着することになる。

天平時代(8世紀)には、天然痘が大流行した。このため当時の人口の30%前後、100万人以上が死亡したと言われている。

発生源は大陸と見られる。当時、遣唐使や遣新羅使が船で往来していた。彼らが帰国し、日本でウイルスを蔓延させたと見られている。天平の疫病大流行によって、政治の中枢を担っていた藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が相次いで死亡。政治の枠組みが大きく変わるきっかけとなった。

疫病封じ祈願の祭ほか仏教文化が花開いた背景に「伝染病との戦い」

また、疫病の大流行によって仏教への帰依を深めたのが聖武天皇だ。聖武天皇は国ごとに国分寺と国分尼寺の造立も命じた。奈良の東大寺は全国の国分寺の頂点に君臨する総国分寺として位置づけられた。そして、東大寺に大仏が造立された。聖武天皇は、仏教の力で国を治めていこうとしたのだ。いわゆる「鎮護国家仏教」の誕生である。鎮護国家仏教の枠組みはその後、江戸時代が終わるまで為政者に影響を与え続けた。

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東大寺

日本各地の祭祀に目を転じれば、「疫病封じ」を祈願した祭りが多数見られる。日本三大祭のひとつ、京都の祇園祭がまさにそうだ。発祥は9世紀の祇園御霊会にさかのぼる。きっかけは、やはり疫病だ。現在の二条城の南側にある神泉苑に、当時の国の数である66のほこを立てて、祇園の神を祀り、疫病退散を祈願したのがその最初である。

今日にいたる日本の伝統的宗教文化が花開いた背景には、伝染病との戦いがあったのだ。

仏教や神道といった伝統宗教だけではない。新宗教も、「病気直し」によって発展してきた。例えば、「手かざし」による浄霊を行う世界救世教や崇教真光などがそれに当たる。今回のコロナ騒ぎにおいては、きちんとした防疫措置や治療行為の妨げになるとして、特に新宗教団体の動きを警戒する動きもある。