後深草天皇は政治的にはほぼ実績がないものの、男女の性には業の深い人でした。彼の父である後嵯峨天皇(1220-1272年)は、兄である後深草天皇よりも弟の亀山天皇(1249-1305年)を深く愛します。そして、兄ではなく弟こそが、自分の正統な後継者だと位置づける。それが発端になり、亀山天皇が率いる大覚寺統と後深草天皇が率いる持明院統の争いが生まれ、南北朝時代を引き起こす要因を作ります。
ただ、政治的な対立も、女性の前では何の意味もありません。ある時、亀山天皇が、後深草天皇の元で働いていた二条を見て、「兄さんのところで働いている二条という女の子は可愛いね」と言うと、後深草天皇は「じゃあ、俺が橋渡しをしてやろう」とばかりに、亀山天皇と二条の仲を取り持ちます。
さらに、この兄弟には、性助法親王という出家して僧侶になった弟がいます。本来は仏に仕える身ゆえ、女人はご法度のはずですが、彼も二条に心惹かれる。すると、後深草天皇は、またもや親王と二条の仲を取り持ちます。和泉式部は二人の皇子に愛されて「浮かれ女」と呼ばれましたが、二条は三人の皇子に愛されることになり、浮かれ女どころの騒ぎではありません。
自分の母親が誰なのかもわからない
また、当時の朝廷で大変な権力を持つ西園寺実兼という貴族がいたのですが、二条はこの貴族からも寵愛されています。やがて二条が妊娠するも、子供が誰の子なのかはわからない。当時の身分の高い人は、自分で子供を育てないのが当たり前だったため、二条が女の子を産んだら、西園寺の家臣たちが飛んできて、子供を引き取って、すぐに退散してしまう。その後、二条の生んだ娘は、西園寺の正妻の娘として育てられることになります。
二条は、『とはずがたり』で、当時を回想しながら「あの方(自分の娘のこと)はいまどこで何をされているのかしら」と綴っています。この時代は、自分の母が誰なのかがわからないという事態も、よく起こっていたようです。そう考えると、ますます「万世一系は大丈夫なのか?」と考え込んでしまいます。
平安時代や鎌倉時代は、男女の恋愛に対して、いたっておおらかなものでしたし、室町時代になると、『源氏物語』は貴族の間で深く愛読されていた。
でも、江戸時代のように女性の権利がぎゅっと押さえつけられてしまった時代になると、『源氏物語』の評価は、一気に変わります。実際、当時の京都の行政機関のトップである京都所司代が、「『源氏物語』は文学としてはいいけれども、こういう風紀の乱れはどうかと思う」と言い出したとも言われています。
ただ、室町時代が仮に西暦1500年まで続いていたと想定してみても、日本は女性に対しておおらかだった時代の方が長い。現代の日本では無視されがちな「女性史の空白」を知ることで、いま議論されている男系天皇、女系天皇に対する議論も、少し変わって見えるのではないでしょうか。