受け継がれる、航空機エンジニアが残した思想
そして、スバル360、スバル1000といった往時の名車を設計した技術者が百瀬晋六。トヨタのクラウンを造った中村健也、日産(プリンス)のスカイラインの開発に携わった桜井眞一郎と並ぶ日本の三大自動車エンジニアのひとりである。
桜井は最初から自動車設計を学んだが、百瀬は航空機のエンジニアであり、中村はプレス機などの設計をする生産技術者だった。だが、他分野からの才能が日本の自動車を育て、モノ作り技術を革新していったといえる。
今もスバルに残るのは、中島飛行機時代から在籍した航空機エンジニアがもたらした技術と考え方だ。
あるスバルのOBは「百瀬さんたち航空機のエンジニアは当社の車にさまざまな飛行機の技術を持ち込みました」と語った。
そして、続ける。
「いちばん大事なのは“燃料の通路”なのです。飛行機も自動車も同じように燃料を燃やして走ります。ところが、飛行機は何千mも急上昇したり、あるいは急下降します。酸素の濃いところから薄いところまで行ったり来たりする。宙返りなんかもしちゃいます。機体がどんな状態であれ、つねにエンジンまで燃料が供給されなくてはなりません。そのためには燃料ポンプ、燃料ホースからエンジンまでの道筋が大切なんです。気圧が変わっても燃料を供給する通路の設計は、飛行機技術者がもっとも得意とするところでした。百瀬さんはそれをわかっていたから、スバル360、スバル1000はどんな急坂でも上ることができたんですよ」
社員が自らスマホに保存する「言葉」
敗戦国の日本はある時期まで占領軍から飛行機製造を禁止された。そのため、飛行機の技術者はスバルだけでなく、トヨタ、日産、ホンダなどに入社し、自動車開発に携わった。日本の車を一流にしたのは自動車のエンジニアだけでなく、戦前の航空機技術者だった。
同社専務取締役で、技術部門を統括する大拔哲雄もサーキットに来ていた。彼もまたファンに頭を下げ、レースの推移を見ながら、私の質問に答える。
「今もスバルの車に飛行機の技術は反映されているのですか?」
大拔は「はい」と言った。
「でも、技術そのものよりも考え方ですね。百瀬さんの語録があるのですが、設計や開発の人間なら誰でも百瀬さんの言葉を一つや二つはそらんじています」
百瀬が遺した言葉はエンジニアだけでなく、すべての社員が耳にしたことがあるものだ。だからといって同社ではそれを社員手帳に載せたり、公式に広めたりはしていない。それぞれが自発的にスマホに保存したりしている。