隔離施設での生活を望む「光田派」の患者もいた
実際に神谷は、光田に対する批判が強まってからも、「いったい、人間のだれが、時代的・社会的背景からくる制約を免れうるであろうか。何をするにあたっても、それは初めから覚悟しておくべきなのであろう」(「光田健輔の横顔」、前掲『神谷美恵子著作集2』所収)と述べるなど、光田を擁護し続けた。けれども展示には、神谷のそうした側面については触れられていなかった。
館内の見学を一通り終えてから、受付談話室で学芸員の田村朋久さんに面会した。私は田村さんに、見たばかりの印象を率直にぶつけてみた。
——光田健輔に関する説明文は、ちょっと矛盾していると言いますか、評価を避けているような苦しい文章になっていますが、これはなぜなのですか。
「光田が園長だった時代には、光田派の患者と反光田派の患者がいました。いまでは強制隔離が間違っていたことがわかっていますが、当時は社会の差別や偏見が強く、患者のなかには差別や偏見を耐え忍んだまま一生を過ごすよりも、自然豊かな愛生園で生活の保障を受けられるほうを望む人たちがいたこともまた確かです。そうした人々から、光田は感謝されていたのです。説明文には、光田派の患者もいたという事実が踏まえられています」
負の歴史として、人権教育の場へ
——しかし、光田が進めた「無らい県運動」は、ハンセン病が恐ろしい急性伝染病だという誤った情報を広めることで、差別や偏見を一層強めてしまいましたよね。彼は病理学者として、ハンセン病がきわめて伝染力の弱い病気であることを知っていたはずなのに、真逆なことをした。しかもプロミンが開発されてからも、強制隔離を改めようとしなかった。もし戦後直ちに過ちを認めていれば、差別や偏見は薄まったのではないでしょうか。
田村さんがうなずいた。私は話題を変えた。
——入所者数が161人となり、平均年齢が85歳ということは、近い将来、入所者がいなくなることも予想されます。そのとき、長島愛生園はどうなるでしょうか。
「人権教育の場として残すべく、世界遺産の登録を目指しています。現在でも、歴史館には年間1万2000人が訪れています。4割が学校関係者です。世界遺産に登録されれば、この数はもっと増えるはずです」
長島愛生園は、後世にきちんと記憶されなければならない負の歴史をもっている。その歴史を伝える建物や施設もきちんと保存されている。世界遺産登録をひそかに応援したい気持ちになった。