岡山県瀬戸内市にある国立ハンセン病療養所「長島愛生園」。ハンセン病患者を隔離する目的で1930年に開設され、いまも長島に残る。患者に対する差別や偏見を助長してしまった隔離政策とその施設は負の歴史を持っている。当時の患者たちはどのような心境で暮らしていたのか。政治学者の原武史氏が取材した――。(第2回/全3回)
※本稿は、原武史『地形の思想史』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
「日本のエーゲ海」の向こうには、かつての隔離施設があった
2018年8月20日月曜日、新横浜を9時29分に出た「のぞみ19号」は、岡山に12時27分に着いた。12時55分発のJR赤穂線上り播州赤穂ゆきの普通電車に乗り換える。赤穂線は山陽本線の相生と東岡山の間を結んでいて、東岡山までは山陽本線と同じ線路を走る。
東岡山でようやく山陽本線から分岐する。赤穂線は山陽本線よりも海側を走るが、車窓から瀬戸内海を望むことは全くできない。長島愛生園がある瀬戸内市の中心駅、邑久に着いたのは13時19分。赤穂線は単線のため、中心駅と言っても上下線共用のホームが1つしかない。
瀬戸内市の観光の目玉は、「日本のエーゲ海」と称される牛窓だろう。牛窓は古くから港町として栄え、江戸時代には将軍の代替わりなどに際してソウルから派遣された朝鮮通信使が立ち寄ったことでも知られる。牛窓に比べると、これから行く長島は観光のイメージが皆無と言ってよい。
愛生園まで行くバスもあるが、本数が少ないため駅前に停まっていたタクシーに乗る。どこまで行ってものどかな農村の風景が広がるばかりで、市名に反してなかなか瀬戸内海が見えてこない。20分あまり走ったところで、ようやく前方の視界が開け、橋が見えてきた。本州と長島の間にかかる邑久長島大橋である。