富士山の麓は、かつてさまざまな宗教の信者が集まる“宗教都市”だった。政治学者の原武史氏は、「オウム真理教のサリン製造工場や、創価学会のかつての総本山は富士山の麓にあった。それには理由がある」という——。

※本稿は、原武史『地形の思想史』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

写真=時事通信フォト
オウム真理教の施設(サティアン)の跡地を整備して作られた富士ヶ嶺公園=2019年4月13日、山梨県富士河口湖町

富士山に登頂すれば罪やケガレが祓われる

日本で代表的な宗教都市といえば、天理教の本部がある奈良県天理市や、金光教の本部がある岡山県浅口市(旧・金光町)などがすぐに思い浮かぶだろう。JR桜井線の天理駅には、ふだん使われない信徒の団体専用ホームまである(JR山陽本線の金光駅にも団体専用ホームがあったが、現在は撤去されている)。

これらはいずれも、明治以降に西日本で発展した新興宗教にほかならない。江戸時代にまでさかのぼれば、より多くの庶民が集まる宗教都市が東日本にあった。富士山麓の上吉田、現在の山梨県富士吉田市である。

古来、富士山は霊峰として信仰の対象になってきたが、江戸時代になると富士講と呼ばれる民間信仰が盛んになり、江戸末期には「江戸八百八町に八百八講」と言われるほど庶民の間に広がった。上吉田の町には自宅を宿泊所として提供し、富士信仰を広める役割を果たす御師の家々が並ぶようになった。ここに泊まった信者たちは、翌朝に富士山の神とされたコノハナサクヤヒメ(木花開耶姫命)をまつる北口本宮冨士浅間神社に参拝し、山頂を目指した。

彼らの目的の一つは、山頂で「御来光」を拝むことにあった。山頂には極楽浄土があり、登頂すれば罪やケガレがはらわれ、生まれ変わると信じられていた。彼らにとって、富士山とは単なる仰ぐべき山ではなく、たとえどれほどの困難が伴おうと登頂すべき山だったのだ。