富士山は人々に宗教的インスピレーションを与えた

明治以降、富士山は桜と並んで、日本という国家のシンボルとして浮上する。1929(昭和4)年に鉄道省が東京─下関間を走る特急の愛称名を初めて募集したとき、第1位となったのは「富士」であった。

戦中期の1942(昭和17)年には、日本建築学会が開催したコンペ「大東亜建設記念営造計画」に出品した丹下健三の「忠霊神域計画」が、第1位を獲得している(井上章一『戦時下日本の建築家 アート・キッチュ・ジャパネスク』、朝日選書、1995年)。これは、「日本の最も崇高なる自然である富士の裾野」に戦死者を英霊としてまつる忠霊塔をつくり、東京と道路で直結させるというものであった。

この年、吉田口(北口本宮冨士浅間神社)からの富士登山者数が初めて20万人を超えている。明治以前の富士講と戦中期に高揚したナショナリズムがあいまって、空前の人出となったのである。

戦後になると、登山者数はいったん減少する。しかし登頂しなくても、美しい富士山の山容は古くから人々にさまざまな宗教的インスピレーションを呼び起こしてきた。計画倒れに終わった「忠霊神域計画」もその一つといえようが、山梨県から静岡県にかけて、背後に富士山を望む「麓」に多くの宗教団体が集まり、本部や道場や施設を置いてきたことからも、このことは明らかだろう。

「地下鉄サリン事件」のサリンは富士山の麓で作られた

信仰は時として狂信となり、とてつもない災厄をもたらすことがある。最もよく知られているのは、静岡県富士宮市に富士山総本部を置き、山梨県西八代郡上九一色村(現・富士河口湖町)に施設を建設したオウム真理教だろう。

89年から上九一色村に進出したオウム真理教は、富士山を望む富士ヶ嶺地区に「第1上九」から「第7上九」まで7つの拠点をつくり、サティアンと呼ばれる出家信者を収容する施設やサリン製造工場、倉庫などを配置した。95年3月20日に起こった地下鉄サリン事件では、ここで製造されたサリンが使われた。

その2日後、サティアンで警視庁の強制捜査が行われ、教団の幹部が次々と逮捕された。同年5月16日には、グルと呼ばれた教祖の麻原彰晃(1955~2018)が、第6サティアンで逮捕されている。

サティアンはことごとく取り壊され、現在では何も残っていない。富士講は廃れてもなお博物館が建てられ、御師の家が保存されるなど、信仰が盛んだった時代をしのぶことができるのとは対照的である。