まずは富士講を知るため「ふじさんミュージアム」へ向かう

2018年10月29日月曜日、快晴である。小林順『本の旅人』編集長が運転する車は、中央自動車道を西に向かっている。それとともに、富士山がどんどん大きく見えてくる。七合目あたりまで雪に覆われた山容が青空に映えている。

河口湖インターで降り、富士パノラマラインを経由して「ふじさんミュージアム」を訪れる。正式名称は「富士吉田市歴史民俗博物館」である。富士山を信仰の対象とする山岳信仰「富士講」について知るためには、まずはこの博物館を見学する必要があったからだ。寒くはなかったものの、周辺の木々はすでに半分ほど紅葉していて、朝晩の冷え込みを実感させられる。

富士講の展示はとても充実していた。だが肝心の客がいない。富士急行の富士山(もとの富士吉田)駅からも遠く、バスの便も少ないことが災いしているのだろうか。しかも富士講の実態を知ることができ、ミュージアムの付属施設にもなっている御師の家(旧外川家住宅)は、ここから離れている。

見学を早々に切り上げ、車で富士パノラマラインを戻って富士吉田市の中心、上吉田に向かう。江戸時代に富士講の信者であることを示す白装束の行者が街道を埋めつくし、街道の両側に御師の家々が所狭しと並んでいた宗教都市の面影は、なおも残っている。旧外川家住宅もそうした家々の一つで、重要文化財に指定されている。

裏座敷では行者たちが祝詞や御神歌を唱和

赤い屋根の中門をくぐると、細い水路を渡る。富士山の伏流水のせいか水は透きとおり、勢いよく流れている。ここには小さな滝がつくられ、外川家に宿泊した行者たちが水垢離みずごりを行うみそぎ場となっていたようだ。

靴を脱いで母屋に上がる。明和5(1768)年築の建物で、上吉田に現存する家々のなかでも古いほうに属する。ここに行者が宿泊していたが、廊下を介して万延元(1860)年に裏座敷ができると、母屋は家族生活の場となり、行者は裏屋敷に泊まるようになった。

裏座敷には、御師の家に特有の「御神殿」と呼ばれる場所があった。コノハナサクヤヒメなど富士山の神霊をまつる神殿が設けられ、行者たちが神前に座り、祝詞や御神歌を唱和した。御師の家は、宿泊施設であるとともに宗教施設でもあったことがよくわかる。

正午には少し早いが、旧外川家住宅から比較的近い「桜井うどん」で昼食をとることにする。

山梨県の大学に3年間勤めていたことがあるので、この県の麺文化にはなじみがある。全県で広く食べられているのは、小麦粉を主材料として季節の野菜を加え、味噌みそで煮込んだ「ほうとう」で、甲府盆地やその周辺には蕎麦そば屋も多い。一方、富士吉田では織物産業が盛んだった昭和初期から、機械を動かしている女性に手間をかけさせないよう、男性がうどんをつくっていた。富士講の信者にも、登山前に「湯盛りうどん」を振る舞っていたという。