患者たちが待遇改善を求めて鐘を乱打した歴史

さらに坂道を上ると、「恵の鐘」と呼ばれる鐘楼堂が現れた。標高40.2メートルの「光ケ丘」にある。さすがに見晴らしはよく、近くには干潮時に歩いて渡れる手掛島(弁天島)が、遠くには小豆島が眺められる。手掛島には、光明皇后をまつる長島神社がある。

鐘の表面には、第1回で紹介した皇太后節子の「つれづれの~」という和歌が刻まれている。だがここは、36年に患者たちが待遇改善を求めて鐘を乱打した「長島事件」の舞台でもある。890人の定員を上回る1000人あまりの患者を受け入れたことで、患者の不満が爆発したのである。

これ以降も患者数は増え続け、ピークの43年には2021人に達した。邑久光明園と合わせて、長島全体で3000人あまりの患者がいたことになる。

丘の尾根に沿うようにして遊歩道が整備されている。谷に当たる部分には、黄色や橙色の屋根も鮮やかな平屋建の集合住宅がいくつも並んでいた。

反射的に多磨全生園を思い出した。全生園にも似たような平屋建の住宅があるからだ。だが、似ているのはあくまでも住宅だけで、あとは全くと言っていいほど違う。全生園は隔離されているとはいえ周辺は住宅地で、自由に出入りできる。実際に園内に入ると、散歩やジョギングをしている人たちをよく見かける。

一方、愛生園はたとえ本州と橋でつながっても、交通が不便な離島にあるという環境そのものが変わるわけではない。全生園のように、近隣住民が気軽に園内を通り過ぎることはあり得ないのだ。

いまなお続く偏見で故郷に戻れない遺骨が眠る

愛生園の入所者数は、2018年8月20日現在で161人にまで減った。平均年齢は85歳。住宅は、病気にかかった人が入る病棟、介護が必要な人が入る特養棟、健常者が入る一般棟の三種類に分かれている。丘の周辺に点在しているのは一般棟だが、空き家が目立っている。ちなみに職員数は400人で、入所者よりずっと多い。

丘を下ると園の北側に出る。カキの養殖イカダが浮かぶ海を望む高台に納骨堂がある。ハンセン病に対する差別や偏見はいまなお消えず、故郷に戻ることのできない3600柱を超える遺骨が眠っている。2005年10月23日に愛生園を訪れた現上皇と現上皇后は、納骨堂に献花し参拝している(中尾伸治「天皇・皇后両陛下を長島にお迎えして」、『愛生』2005年1月号所収)。

海岸沿いには、隔離された患者を最初に収容して消毒を行った収容所や、逃走を試みた患者や風紀を乱した患者を収監した監房が残っていた。光田健輔は懲戒検束権をもっていたため、裁判を行うことなく独断で患者を監房に送り込むことができた。ここは日本でありながら日本の法律が適用されない治外法権の地だったのだ。

収容所の近くには、1939(昭和14)年に建設された収容桟橋も残っていた。この桟橋は患者専用で、職員などは別の桟橋を利用した。見送りに来た家族も、この桟橋から島内に入ることはできなかった。