初代園長・光田の評価は簡単には下せない

散策を終えた私たちは、歴史館を見学することにした。1955年当時の園長室が復元されている。壁を背にする形で大きな机と椅子があり、机の上には顕微鏡が置かれている。その背後には本棚がある。壁には歴代園長の肖像写真が掲げられているが、初代園長だった光田健輔の在任期間は26年間と最も長かった。

ここに患者が立ち入ることはできなかった。「指令室」と呼ばれたこの部屋からは、日本全国のハンセン病療養所に指令が発せられたばかりか、国策にも影響を及ぼす指令が発せられた(『宿命の戦記 笹川陽平、ハンセン病制圧の記録』、小学館、2017年)。

園長室に隣接して、「先駆者の紹介」のコーナーがあった。光田健輔については、「愛生園の初代園長で、ハンセン病研究の第一人者です。彼の『全患者の強制隔離』という考えは、日本の政策に大きな影響を与えましたが、彼の評価は当時の社会状況も考えなければなりません」「彼の評価は時代背景や医学水準、社会状況などを総合的に判断して行わなければならず、その判断は分かれるところです」という説明がなされていた。

強制隔離が間違っていたことは否定できないが、現在の高みに立って全面否定することもできないという相矛盾した評価がうかがえた。

長島愛生園に通った精神科医・神谷の功罪

神谷美恵子(1914~79)に関する展示もあった。

神谷は1943年に長島を訪れ、初めて光田に会った。「光田健輔先生という偉大な人格にふれたことが、その後の一生に影響をおよぼしている」(「らいと私」、『神谷美恵子著作集2 人間をみつめて』、みすず書房、1980年所収)と述べるほど、その出会いは決定的であった。

1957年から72年まで、神谷は精神科医として、兵庫県芦屋の自宅から片道5時間あまりをかけて、長島愛生園まで通い続けた。66年に出版され、皇太子妃(現上皇后)にも影響を及ぼした『生きがいについて』は、愛生園での医師としての体験に根差した作品であった。79年に死去したが、園内には遺金によって「神谷書庫」が設けられ、ハンセン病関連の文献が収蔵された。

しかしジャーナリストの武田徹は、神谷の姿勢をこう批判している。

本人の意志とは無関係に神谷もまた「社会的貢献」をしている。神谷の生きがい論が療養所をふたたびユートピアとして描いたため、隔離政策を省みる真摯なまなざしの成立が遅れた事情は否めない。(『「隔離」という病い 近代日本の医療空間』、中公文庫、2005年)

療養所をユートピア=良き場所と見なす点において、神谷美恵子の視点は光田健輔に通じるとしたわけだ。