「除夜の鐘はつきません」と鐘撞きは言った

ということは、除夜の鐘はすでに江戸時代から撞かれていたが、近代に入ると、一時中断されてしまったということだろうか。それを裏づける記事がある。それは、1924年の大晦日に新聞に出た二つの記事である。

『東京朝日新聞』の記事では、寛永寺と浅草寺の鐘撞きの老人にインタビューしており、二人は永年それをつとめてきたとされる。

寛永寺の老鐘撞きは、「時の鐘を撞いてゐるんだから特別に除夜の鐘ナンか撞いて居られやしませんやね」と答えている。浅草寺の老鐘撞きも、「除夜の鐘はつきません、時の鐘をついてゐますから」と答えている。

時の鐘は、テレビや映画の時代劇、あるいは歌舞伎などによく登場するが、決まった時刻に寺の鐘を撞き、時刻を知らせるものである。時計が普及していない時代には、皆、この時の鐘に頼った。

もう一つは『東京日日新聞』の記事で、作家で画家の淡島寒月にインタビューしたものである。寒月は、江戸時代には除夜の鐘が盛んだったが、「現在の東京では除夜の鐘をついて生々しい人間生活の無常を知らしめそこに反省をうながす寺院が稀になつた」と述べている。寒月の見解では、江戸時代には除夜の鐘は盛んに撞かれていたことになる(二つの記事については、平山昇『鉄道が変えた社寺参詣―初詣は鉄道とともに生まれ育った』交通新聞社新書から引用した)。

鎌倉時代までは、禅寺で毎日鳴らしていた

産経新聞取材班『祝祭日の研究―「祝い」を忘れた日本人へ』(角川oneテーマ21)では、除夜の鐘について、「この習慣そのものは中国から伝わってきたが、鎌倉時代のころまでは、禅寺で毎日鳴らされていたという。それがやがて大晦日から元旦にかけて欠かせない行事となった」と説明されている。

禅寺は、雲水が修行するための場であり、朝の起床からはじまって、すべてのことを開始する際には、各種の鳴物が用いられる。鐘、太鼓、木魚などである。修行中、雲水のあいだでことばを交わすことはない。食事なども修行と位置づけられており、魚の形をした空洞の「ほう」を叩くことが、曹洞宗では昼食を開始する合図になっている。

禅寺での修行のやり方を定めたものが「清規しんぎ」である。中国の元の時代に作られた『勅修百丈清規』には、「慢十八声、緊十八声、三緊三慢共一百八声」とある。慢はゆるく鐘を撞くことで、緊は強く撞くことを意味する。それを組み合わせると合計108回になるというのである。