箱根駅伝の中継が始まったのは1987年
このように、正月にはさまざまなしきたりがあり、私たちはそれを毎年くり返している。そこには、さほど大きな変化はない。だから、私たちは、そうしたしきたりが相当に昔から続けられてきたものだと考えてしまいがちである。
だが、江戸時代と比べれば、それもかなり変化している。では、江戸時代になかったしきたりは、いったいいつからはじまったものなのだろうか。ふと考えてみると、はじまりが分かっていないものが少なくない。
テレビの中継となれば、いつからそれがはじまったかは、すぐに分かる。紅白歌合戦は最初ラジオの番組だった。はじまったのは1951年からで、テレビでも放送されるようになるのは53年からである。ただし、53年の時点では、ほとんどの家庭にテレビは普及していなかったので、大半はラジオでそれを聴いていた。
箱根駅伝が民放でテレビ中継されるようになったのは、1987年からである。どちらの番組にも関心がない、見ないという人もいるだろうが、一方で、紅白も箱根駅伝もない大晦日から正月の過ごし方は考えられないと思う人もいるだろう。それだけ、この二つの番組は正月行事のなかに深く組み込まれてしまっている。
では、ほかのしきたりはどうなのだろうか。
意外なほど新しい「除夜の鐘」
まず、しきたりとして意外なほど新しいのが除夜の鐘である。
除夜の鐘は、大晦日の夜に各寺で撞かれるもので、回数はほとんどの寺で108回と決まっている。108は、仏教において人間の煩悩の数とされている。煩悩とは、こころの汚れを意味する。108の由来については諸説あるが、一般の人たちは、煩悩の数だけ鐘を撞くことで、煩悩を払うことになると受けとっている。その点で、除夜の鐘は古くからそれぞれの寺で撞かれていたかのように思えてくるだろう。
ところが、除夜の鐘が俳句の季語として定着するのは昭和の時代に入ってからである。1933年に刊行された山本三生編『俳諧歳時記』と翌年の高浜虚子編『新歳時記』からだとされる。
ただ、それまで除夜の鐘が句に詠まれなかったわけではない。宝暦年間(1751~64年)の古川柳に、「百八のかね算用や寝られぬ夜」がある。算用とは金を支払うことを意味する。
また、江戸時代後期に陸奥白石(宮城県)の千手院の住職だった岩間乙二に、「どう聞いてみても恋なし除夜の鐘」の句がある。江戸時代には、除夜の鐘は一部で俳句に詠まれていた。ところが、季語として定着するのは、昭和の時代、1930年代になってからである。