かつて、神社と寺は密接な関係を持っていた

合掌が、神社で祈るときの基本的な作法だったということについては、はっきりとした理由がある。その理由について見ていく際に、忘れてはならないのは、明治時代以前、つまりは、日本が近代社会に入る前には、日本人の宗教世界において「神仏習合」が基本的なあり方だったということである。

明治に入る際、明治政府のなかには、神道を国家の基本に据えようとする国学者や神道家が含まれていた。彼らは、外来の宗教である仏教を嫌い、神道を仏教の影響下から引き離そうとした。具体的には、明治元年に太政官(だじょうかん)布告という形で、「神仏判然令」が出された。神仏判然令はいくつかの布告からなるもので、これによって「神仏分離」が推し進められた。

神仏分離とは、神道と仏教、神社と寺院を引き離す試みである。これによって、神社に奉仕していた僧侶は還俗(げんぞく)しなければならなくなり、仏像を神体とすることも禁じられた。その結果、神社の境内にあった仏教の寺院は破壊された。神仏分離は、仏教を排斥する「廃仏毀釈」に発展したのである。

ちなみに中国では、歴史上幾度となく廃仏が行われた。朝鮮半島でも、儒教を重視する李氏朝鮮の時代には、仏教は圧迫された。

日本では、仏教が伝えられてから、大々的に廃仏が行われたことはなかったが、明治に入る際の神仏分離は、日本における宗教のあり方を大きく変えたのである。

近代以前の神仏習合の時代には、神道と仏教、神社と寺院とは密接な関係を持っていた。

本来は「玉串を捧げる」ときにするもの

社前での参拝の際に、二礼二拍手一礼を行うという作法が、いったいいつから奨励されるようになったのか、それは分からない。ただ、私が大人になるまで、そうした作法は広まっていなかったように思われる。

現在では、多くの神社で、二礼二拍手一礼を奨励する掲示がなされ、参拝者もそれに従っている。とくに、若い人たちは、率先してそれに従っている。彼らが神社に参拝するようになった時点では、すでに多くの神社でそうした掲示がなされていたのだろう。

だが、私を含め、年齢が上の人間になると、二礼二拍手一礼にはどこか違和感があり、このしきたりに従わないということも多いのではないだろうか。

なぜ違和感を持つのだろうか。それは、二礼二拍手一礼が、もともと神職の作法であり、しかも、それを行う前に玉串を捧げる行為が実践されるべきものだからである。本来、二礼二拍手一礼は、単独で行うものではない。玉串奉奠(ほうてん)に伴う作法なのである。