昔は「合掌」して参拝していた

では、二礼二拍手一礼ではないとしたら、以前どのような参拝の作法が行われていたのだろうか。

基本的には、両掌を顔や胸の前で合わせて拝む「合掌」である。今でも、二礼二拍手一礼ではなく合掌して参拝するという人もいる。あるいは、二礼二拍手の後に、合掌する人たちもいる。二礼二拍手一礼だと、手順が定まっていて、それに従っていると、それだけで終わってしまう。神に祈るというとき、こころのなかで祈る間が、この作法には含まれていない。二礼二拍手一礼では物足らない。そうした感覚を抱く人は多いだろう。

昔の人たちがどのように参拝したのか。こうしたことはなかなか記録に残っていないので、確かめることが難しい。それでも一つ例をあげるとすれば、戦時中に作られた映画にそれを見ることができる。その映画とは、世界的に評価が高い黒澤明監督が、1943年、つまりは戦時中に撮影したデビュー作、『姿三四郎』である。

『姿三四郎』は、富田常雄の長編小説『姿三四郎』を原作としている。主人公の姿三四郎は、恐ろしく強い柔道家という設定になっていて、モデルは実在した柔道家、西郷四郎だった。

こころを込めた祈りの姿は美しい

西郷は、嘉納治五郎(かのうじごろう)が創設した講道館の四天王の一人である。映画のなかで、嘉納治五郎は矢野正五郎として登場し、精神的に未熟な三四郎を鍛え上げていく。三四郎は、村井半助という、他の流派の年配の柔道家と対戦することになる。

ところが、その試合を前に近くの神社を通りかかったとき、半助の娘が、神社の拝殿の前で一心に祈りを捧げている姿を目撃する。このことが、三四郎のこころを乱すことにつながるのだが、(とどろき)夕起子演じる娘は、着物姿で、下駄を履き、からだをその上に沈め、目をつぶりながら手を合わせ、懸命に祈っていた。

物語の舞台は明治時代に設定されているが、明治から映画が撮影された昭和の初期まで、神社に参拝するときには、合掌したことがそこからうかがえる。より丁寧に祈ろうとすれば、自然と腰をかがめることになったはずだ。

映画を見ていただければ、たちどころに理解されると思うが、この娘の祈りの姿は美しい。美しいのは、所作を意識してのことではなく、祈りにこころを込めたからだ。なんとか父親に勝って欲しい。その強い思いが、娘の祈る姿に表れている。