賽銭を投げても「神と向き合う」気持ちにはなれない

一般の人間でも、神社で「正式参拝」を行うときには、玉串を捧げる。(さかき)を神前に供えるのだ。二礼二拍手一礼は、その後に行われる。これが示しているように、玉串を捧げることと二礼二拍手一礼はセットになっている。実際、これをやってみると、作法に流れがあり、違和感を持つことはなくなる。

ただ、社殿の前で参拝をするというときには、いきなり二礼二拍手一礼を行う形になる。その前に、賽銭箱に賽銭を投げ入れるという行為があり、それが玉串を捧げることの代わりと言えなくもないが、玉串と賽銭では意味が違う。玉串を捧げるときには、供える前に祈念する。この行為があることで、神に相対しているという感覚が生まれる。それが、賽銭を投げ入れるという行為には欠けているのだ。

社殿の前で、ただ二礼二拍手一礼をするというときには、祈念するという部分がない。そのため、参拝者のなかには、二拍手をした後にそのまま合掌し、祈念する人たちがいる。そうしないと祈念しないまま参拝が終わってしまうからだ。祈念する箇所を含まない二礼二拍手一礼は、神社に参拝する作法として果たして好ましいものなのだろうか。私は、そこに強い疑問を感じる。

神社本庁が権威を示したいのではないか

二礼二拍手一礼の作法を推奨している神社、あるいは神社本庁の側は、その作法に祈念する行為が欠けていることについて、十分に検討してきたのだろうか。ただ、正しい作法というものを指導することによって、自分たちの権威を示そうとしてきただけなのではないだろうか。

島田裕巳『神社で拍手を打つな!』(中公新書ラクレ)

東京都神社庁のホームページで、わざわざ「お参りする際の作法には厳格なきまりはありません」と述べられているのも、実は、神社庁の方針に対して(ひそ)かに抵抗しているからではないだろうか。昔から神社にかかわってきた人間なら、たとえ神職でも、祈念が欠けている作法に釈然としないものを感じるはずだ。そもそも、神社に参拝するということは、それほど堅苦しいことなのだろうか。もっと自由でいいのではないだろうか。

若い人も、二礼二拍手一礼にこだわるのではなく、社前で合掌するというやり方をとってみたらどうだろうか。思いを込めるには、その方がずっと好ましいはずだ。

二礼二拍手一礼では、どうしてもこころを込めて神と相対することにはならない。神社で拍手を打ってはならないのだ。

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