自分の身体をコントロールできることに価値
その結果、太った身体は十分な食料にアクセスできることの象徴、つまり上流階級の証としてはたらき、加えて、女性の場合は、ぽっちゃりした身体が、元気な赤ちゃんを産むことのできる印としてみなされました。婚姻前に無理やり新婦を太らせる習慣を持つ民族がいくつも報告されているのはそれが理由です。
ところが、社会の工業化が進むと状況は一変します。食料確保と備蓄の技術が進み、貧しい者でも簡単に太ることのできる社会が到来すると、十分な食料を備蓄できること、餓えずいられることは富の証ではなくなります。
むしろ大量の食べ物に囲まれる中でも、その誘惑に屈することなく、自らの意思で自分の身体をコントロールできることに価値が置かれるようになるのです。こうして太っていることは病気の兆候、やせていることは健康と美しさの証となり、結婚式を控える新婦がダイエットに励む社会が訪れます。
病気は「不運」から「自己管理の失敗」になった
次に考えていきたいのは、体型と健康、そして自己管理の関係です。一般的に私たちの社会では、やせている人は自己管理ができて健康で、太っている人は自己管理ができずに不健康といわれます。しかしこの結び付けはどこから来たのでしょう?
実はこの考えもそれほど古いものではなく、20世紀後半に広がった予防医学の考え方の影響を受けていることがわかっています。これはいまある病気を治療するのではなく、身長や体重、性格、ライフスタイルといった個々人に関する多様なデータを統合し、病気のリスクを統計的に割り出したうえで、予防のための介入を行う、20世紀後半以降の医学のあり方のことです。
このことを『リスク化される身体』(青土社)の中で体系的にまとめた医師の美馬達哉さんは、病気にならないための食事や運動指導、あるいは定期検診の推奨といった形で、心身の不調を感じない人々の生活にまで医学が介入しはじめた点を批判的に検討します。
それまでの医学は目の前で苦しんでいる人を治療するという「いまここ」に着目するものでした。ところが、予防医学の考えが広まるにつれ、医学は、そうでない人々の身体にまで積極的に干渉するようになります。
一方でこの考えは、「あなたの自己管理が悪いから病気になった」という自己責任論を生み出す温床にもなり得るのです。たとえば「自己管理を怠ったからがんになったにちがいない」とか、「予防注射を打たなかったからインフルエンザにかかったのだ」といった考え方をあげることができるでしょう。
がんの要因は様々ですし、予防注射をしてもインフルエンザにかかるときはかかります。しかし病気の自己責任論が行き過ぎると、個人のそれまでのふるまいがターゲットになりやすく、病気は人生の不運から、自己管理の失敗に姿を変えるのです。