「10万年後は安全」と言う科学者を信用すべきか

あいちトリエンナーレは核や原子力問題についても積極的に扱っている。ミリアム・カーンの「美しいブルー」は美の中に核問題への洞察がある。スチュアート・リングホルトの「原子力の時計」は10億年後の時間の概念について来訪者に思索を促している。

こうした作品は福島第一原発事故が世界のインテリ層に与えた思想的な衝撃の裏返しだろう。日本の原発問題は、たとえ福島第一原発がアンダーコントロールの状態であったとしても、本質的な危機は何一つ解決していない。原発がある限り高レベル放射性廃棄物は産み出され、その無害化には10万年が必要とされる。一般市民にとっては、10億年も10万年も「はるか彼方」であるわけで、「10万年後は安全」と言う科学者を信用すべきかどうかは、このインスタレーションが物語っている。

Photo: Ito Tetsuo
あいちトリエンナーレ2019の展示風景。ウーゴ・ロンディノーネ《孤独のボキャブラリー》2016

こうした作品群を見るにつけ、「名古屋市民よ覚醒せよ、愛知県民よ目覚めよ」という叫びが聞こえてくるような気がしてならない。産業社会の中で安穏と暮らす我々は、あいちトリエンナーレを通じてもう一度現代文明を問い直すべきであろう。

このような観点からみると、あいちトリエンナーレは科学技術系博物館とのコラボレーションがあれば、より意義深いものになったのではないだろうか。科学文明への畏怖を持ちつつ、それでも社会のために科学研究を進めていくにはどのような矜持を持てばよいのかという示唆を現代美術は与えてくれる。特に、名古屋市美術館と名古屋市科学館は同じ白川公園の中にあり、近接しているにもかかわらず何らの協働もなかったことは非常にもったいないように思えるのである。

国境や国籍について考えさせる作品群の意味

ここまで科学技術の問題を中心に現代アートについて考察してきたわけだが、近代が不可避的に抱える別の問題として「国家」という論点は避けられない。17世紀半ばに結ばれたウエストファリア条約以降、人々は主権国家体制の中に組み込まれ、否が応でも「国民」となり、国境や国籍について考えるようになってしまった。近代に作られたこの主権国家という枠組みは、21世紀の今に至るまで存続している。

主権国家体制の中で、所属する国家から弾圧を受ける者は難民となり、また強国の拡大とともに新たに領土に編入された地域では同化を余儀なくされる例も多い。あいちトリエンナーレでは、この主権国家体制に翻弄される人々を表現した作品も数多くの展示がある。

前述のジェームズ・ブライドルは「継ぎ目のない移行」の中で、出入国管理のための建造物の再現映像を通して、国籍や難民の意味について考えさせようとしている。キャンディス・ブレイツの「ラヴ・ストーリー」は難民のインタビューを俳優によって再構成しようとする試みであり、個人の責任ではどうしようもないレベルで誰でも潜在的に難民となりうることを意識させる力作である。