「ぶっ壊し」たかったのはこの社会
結論からいうと、多くの人が肌感覚で覚えたのであろう「違和感や異様さ」の正体は、立花氏の社会に対するまなざしにもとづいている。氏をつき動かしていたのはNHKに対する義憤ではなく、氏個人の社会全体に対する憤怒である。
立花氏が「無鉄砲」と評される行動をためらいなく行えるのは、氏がNHKに強い問題意識を持っていたからではなくて、氏が社会全体に憎しみをたぎらせていたからだ。氏が「ぶっ壊し」たかったのはこの社会そのものであり、その象徴として仮託していたのがNHKだったにすぎない。
立花氏は社会の手続きを遵守することに対して価値を感じない。氏にとって社会は、尊重するに値しないものだった。自分を尊重しない社会に持ちあわせる敬意など、なくても当然だからだ。
会見場で記者たちになかば説教のように言われたような「社会通念」「社会常識」は、立花氏になんら響くものではなく、氏にとってみれば唾棄すべきものの典型例で、そのことばを聞いては自分の決意をあらたにしたことだろう。やはりぶっ壊さなければならない――と。
環境が作り出した「誰も信用しない人」
——なぜ私がそのように立花氏の「違和感・異様さ」を分析するのかといえば、自分自身に覚えがあるからだ。氏のようなまなざしを持つ人は、私の育った環境ではありふれた存在だった。社会の「まともな」「ちゃんとしている」人びとから排除され、あるいは存在しなかったことにされるような人びとが、私が生まれてから人生の多くを過ごした街には大勢いた。
立花氏が自身の動画で語るように、氏は幼少期から青年期にかけてまで、ひじょうに過酷な環境で過ごしていた。物心ついた時点で家族は機能不全状態、自身も小学生の頃に栄養失調で倒れるほど困窮した。15歳から家を離れて一人暮らしをはじめ、食いつなぐためにバイトに明け暮れた。
立花氏にとって人間社会はけっしてあたたかいものではなかった。氏は社会から包摂されるどころか「排除され、疎外されてきた人間」のひとりだったのだろう。氏が人間社会に対して感謝するどころか憎悪を抱くことになるのは無理もないことのように思える。
人間社会に対して憎悪が根底にある人は、他人を信用しない。いや、信用したくてもできないのだ。もちろん、一時的には他者と接近したりもするが、最終的には相手へ積み上がった不信感が限界を超えてしまい、かつて仲間・味方だったはずの人間を、徹底的に攻撃しはじめる。――今回の立花氏のように。