アカデミー賞を総なめにし、欧米での評価は高いが……
今年のアカデミー賞を総なめにした映画『オッペンハイマー』は3月末からようやく、アメリカから8カ月遅れで公開された。重層的な構成、効果的な音響と美しい映像、俳優の名演など、映画技術の点でみるかぎり、見事なできばえになっている。それに比べてあまりに大きな落差があるのが、その薄っぺらな原爆観と思想のなさだ。
技術の高さに見合わない現実。原爆自体、当時の最先端の科学技術と経済力を結集して作られた。そしてそれが大量殺戮に使われたことの重みが、開発を推進した科学者と政治家にはわからない。この映画は結果としてそのことを描いているが、そうした科学者や政治家を超えた視点を提供しているとは、言いがたい内容だ。
最初に指摘しておきたいが、この映画が示す原爆観は、約80年前の1945年8月6日、ハリー・トルーマン大統領が広島で原爆を使用した直後、「これが原爆だ」と声明で発表した時の内容から、ほとんどアップデートされていない。
原爆は破壊力のある爆弾として描かれ、放射能の影響は無視される
そのトルーマン声明のさわりが、ラジオで読み上げられるシーンがある。「16時間前、アメリカの航空機が一発の爆弾を投下し、広島を役に立たない状態にした」「この爆弾はTNT2万トン以上の威力があった」という冒頭の部分だ。
そのようにして『オッペンハイマー』では、原爆は単に圧倒的な破壊力を持つ巨大な爆弾のように扱われる。放射性物質を含んだ黒い雨の被害にみられるように、原爆は広島・長崎の被爆者に何十年も続く原爆症の苦しみをもたらしてきた。だが通常兵器とは違う、そうした核兵器としての特質にはほとんど触れない。
この約80年の間に積み上げられた被害の記録と記憶にもノータッチ。被爆者の声は全く含める必要はないというその態度は、日本に対して絶対的に強い立場にあった戦争終結時のアメリカの姿を、この映画自体が再演しているかのようだ。
一方で、『オッペンハイマー』が大きな軸に据えているのは、ナチスドイツやソ連との国際的な兵器開発競争であり、アメリカ国内の政治闘争だ。この2点も、前に触れたトルーマン声明を形づくる大きな枠組となっている(トルーマン声明の詳しい分析は、拙著『“ヒロシマ・ナガサキ” 被爆神話を解体する』参照)。