第96回アカデミー賞(アメリカ)で作品賞、監督賞、主演男優賞などを獲得し、日本でも評価の高い傑作として公開された映画『オッペンハイマー』。映画における原爆の描かれ方を研究してきた柴田優呼さんは「この映画が、これまで広島、長崎への原爆使用と向き合ってこなかったアメリカ社会の進歩を示しているとは思えない。むしろ、80年前の原爆投下時の論理からアップデートしていないのでは」という――。
2024年3月29日、東京で映画『オッペンハイマー』のポスターの前を通り過ぎる女性
写真=AFP/時事通信フォト
アカデミー賞受賞後、日本で公開された『オッペンハイマー』、2024年3月29日

アカデミー賞を総なめにし、欧米での評価は高いが……

今年のアカデミー賞を総なめにした映画『オッペンハイマー』は3月末からようやく、アメリカから8カ月遅れで公開された。重層的な構成、効果的な音響と美しい映像、俳優の名演など、映画技術の点でみるかぎり、見事なできばえになっている。それに比べてあまりに大きな落差があるのが、その薄っぺらな原爆観と思想のなさだ。

技術の高さに見合わない現実。原爆自体、当時の最先端の科学技術と経済力を結集して作られた。そしてそれが大量殺戮に使われたことの重みが、開発を推進した科学者と政治家にはわからない。この映画は結果としてそのことを描いているが、そうした科学者や政治家を超えた視点を提供しているとは、言いがたい内容だ。

最初に指摘しておきたいが、この映画が示す原爆観は、約80年前の1945年8月6日、ハリー・トルーマン大統領が広島で原爆を使用した直後、「これが原爆だ」と声明で発表した時の内容から、ほとんどアップデートされていない。

原爆は破壊力のある爆弾として描かれ、放射能の影響は無視される

そのトルーマン声明のさわりが、ラジオで読み上げられるシーンがある。「16時間前、アメリカの航空機が一発の爆弾を投下し、広島を役に立たない状態にした」「この爆弾はTNT2万トン以上の威力があった」という冒頭の部分だ。

そのようにして『オッペンハイマー』では、原爆は単に圧倒的な破壊力を持つ巨大な爆弾のように扱われる。放射性物質を含んだ黒い雨の被害にみられるように、原爆は広島・長崎の被爆者に何十年も続く原爆症の苦しみをもたらしてきた。だが通常兵器とは違う、そうした核兵器としての特質にはほとんど触れない。

この約80年の間に積み上げられた被害の記録と記憶にもノータッチ。被爆者の声は全く含める必要はないというその態度は、日本に対して絶対的に強い立場にあった戦争終結時のアメリカの姿を、この映画自体が再演しているかのようだ。

一方で、『オッペンハイマー』が大きな軸に据えているのは、ナチスドイツやソ連との国際的な兵器開発競争であり、アメリカ国内の政治闘争だ。この2点も、前に触れたトルーマン声明を形づくる大きな枠組となっている(トルーマン声明の詳しい分析は、拙著『“ヒロシマ・ナガサキ” 被爆神話を解体する』参照)。

ナチスドイツに先んじて原爆を造ろうとしたアメリカ

映画の前半では、原爆開発の様子の描写に力が入れられている。ここでしばしば言及されるのは、ヨーロッパにいる科学者たちの動向だ。つまり、その背後にいる競争相手国の存在に、常に意識が向いている。

後半では、オッペンハイマーに対する安全保障絡みの聴聞会でのやり取りが前面に出る。特にこの部分は、国内政治のつばぜり合いの様相が強く、日本の観客が肩すかしを食らう点の1つだろう。ユダヤ系ドイツ移民の子であるオッペンハイマーは、ソ連のスパイなのか、スパイではないのか。これが重大問題となるのは、冷戦下の軍拡競争の文脈で、原爆をとらえることが当然視されているからだ。

アインシュタイン(左)とオッペンハイマー(右)、1950年
アインシュタイン(左)とオッペンハイマー(右)、1950年ごろ(写真=アメリカ国防総省/PD US Military/Wikimedia Commons

広島・長崎への非人道的な爆撃はとってつけたように描かれる

つまり、オッペンハイマーという人間を舞台回しにして、原爆を開発し、核兵器を保有することに至ったアメリカ政治のその後を描くことに、この映画の主眼はある。では広島・長崎はというと、とってつけたように言及されるだけだ。オッペンハイマーの失脚を画策した原子力委員会のルイス・ストローズ委員長が突然、広島・長崎の人々に対するオッペンハイマーの罪悪感の欠如をなじるシーンが挿入される、といった具合だ。このように広島・長崎は、アメリカの国内政治における攻撃材料の1つに矮小化されている。

『オッペンハイマー』が示すこうしたかなり限定的な世界観は、その時代の人間だったオッペンハイマーを追っている以上、ある意味当然でもある。そして、マンハッタン計画を主導した彼の世界観が、トルーマン声明にみられるようなアメリカ政府の公式の考えと重なりあうのも、不思議ではない。

問題は、そうした時代的な制約がなく、もっと広い視野から世界観を育むことができるはずの、2024年に生きる私たちが(アメリカでこの映画が大ヒットした2023年と言ってもいいが)、なぜこんな先祖返りしたような原爆観を表した映画を観ているのか、という点だ。

原爆被害者のイメージがたった1回だけ出てくる問題のシーン

広島での原爆使用が「成功」した後、オッペンハイマーが、ロスアラモスで共に原爆開発に携わった人たちを前にスピーチをするシーンがある。ここで彼は突然、熱狂的に喝采する彼らの頭上で原爆が炸裂したかのような幻影を見る。女性の顔が崩れ落ち、黒焦げの死体が映し出される。

このシーンを見て、広島の原爆被害を想像し、それに対する罪悪感を表現したものだと思う人もいるかもしれない。だがここで表出されているのはむしろ、今後自分たちがターゲットになるかもしれない、という恐怖心の方だ。実際このシーンで描かれるのは、スピーチ会場にいた白人男女の集団が、一瞬にして消えてしまう悪夢のような光景だ。オッペンハイマーは文字通り、彼ら自身が被爆者になったところを想像している。

もっと一般的に、原爆被害の悲惨さを表現したシーンだ、とみなすこともできないわけではない。けれども、それはあくまで白人男女の肉体を通して想像される、ということだ。

広島に投下された原爆のキノコ雲
広島に投下された原爆のキノコ雲。下に見えるのは広島市街。エノラ・ゲイ乗員のジョージ・R・キャロン軍曹撮影。1945年8月6日(写真=アメリカ合衆国連邦政府/PD US Army/Wikimedia Commons

なぜ爆撃されていない白人の姿を通して被爆を描いたのか?

『オッペンハイマー』では、広島・長崎の被爆者だけでなく、原爆開発チームに含まれていたはずのアジア人らの姿も消されている、との批判がある。また核開発・製造の途上で汚染されたアメリカ国内の諸地域の住民(非白人が大半とされる)や、アメリカが核実験をした南太平洋のマーシャル諸島の住民たちの存在も、全く眼中にない。

実際には被害に遭っていない白人男女の肉体を通じて、現実に被害に遭った多くの非白人の存在が包含されるなら、極めておかしな転倒というしかない。これに疑問を持たないことが、私にはよくわからない。

核の恐ろしさが、白人の姿を通じて可視化されるのがデフォルトだとするなら、それはかなり危険なことだ。『オッペンハイマー』がしてみせたように、非白人の被害は、核超大国のアメリカでしっかり可視化されず、問題化もされないということになり、実際そうした状況が約80年後の今も続いているからだ。

それが今後、先行きが不透明な世界情勢の中で、特に非白人に対する核兵器使用のハードルを低くしてしまう恐れはないのだろうか。

2016年、オバマ大統領の広島訪問でアメリカは進歩したのか?

8年前の2016年、当時のバラク・オバマ大統領が広島を訪問した時、日本では多くの人がアメリカ社会の原爆観は大きく前進した、と肯定的にとらえた。たとえ言葉上のことであったとしても、オバマはスピーチで、「人間社会に同等の進歩がないまま技術が進歩すれば、私たちは破滅する」「原子の分裂を可能にした科学の革命には、倫理的な革命も必要」という考えをはっきりと示した。

また「いかなる命も貴重だという主張。私たちは、人類というひとつの家族の一員であるという基本的で必要な概念。これこそ私たちが皆、語らなければならない物語」と、人種差別のない社会の実現を、暗に訴えた。

The Obama White House「President Obama Participates in a Wreath Laying Ceremony in Hiroshima, Japan」2016年5月27日

オバマの言葉は今聞くと、まるで百年前のできごとのように感じられる。少なくとも『オッペンハイマー』は、一気に約80年前の、原爆使用時の原爆観に立ち戻っている。それを現在地から見直してどう位置づけるのか、という考察も視点も欠けている。コロナ禍でアジア系の人々に対するヘイトクライムが多発し、アメリカ社会の人種間の軋轢あつれきが可視化された後に公開された映画だとも思えない。

白人中心主義的な論理で原爆を肯定するわけにはいかない

こうしたことを議論する時、日本はもともと一方的な被害者ではなく、まずは自らの侵略行為を真摯に振り返るべきだという指摘が、よくなされる。全くその通りなのだが、もしそれが理由でアメリカの原爆観の批判を控えるような結果になったとしたら、それはむしろ、彼らの無責任で白人中心主義的な原爆観を是認することになってしまいかねない。

大事なのは、広島・長崎で現実に使われた2発の原爆により殺され、原爆症などで苦しみ続けた多くの人たちは人間であり、このような非人道的な武器の使用は、人類に対する冒涜ぼうとくだということだ。この当然のことを再確認しておきたい。その意味で、日本にいる私たちは批判を続けていく必要がある。

トルーマン声明が出た当時と比べ、『オッペンハイマー』で変わったことがあるとすれば、そのトーンの違いにある。同じような枠組みで作られ、同じような事柄しか見ないとしても、この映画の中には勝利感の喪失と、その結果としての混迷感が漂っている。

この映画が評価されること自体が、アメリカの思考停止だ

アメリカにとって、原爆は決して小さな事柄ではない。アメリカの国体に直結する極めて重要な位置を占めている。第二次世界大戦はアメリカがヨーロッパを凌駕りょうがし、世界のリーダーとなる契機となったが、それを実質的に見せつけたのが広島・長崎における原爆の使用だったからだ。

その意味で、原爆は戦後のアメリカのアイデンティティの根源にある。

だが『オッペンハイマー』を見ていると、原爆実験のシーンで強調された爆発力の強大さは、その後の聴聞会の尋問シーンを通じて、だんだんとかすんでいくような展開になっている。

また、オッペンハイマーが青年期につきあっていた女性の自死や、数多くの婚姻外での女性とのつきあい、配偶者との関係の破綻といったエピソードがもたらす影響も大きい。彼の人物像から、「原爆の父」といった“権威”や“名誉”ある側面が、どんどん差し引かれていく。それはまるで、原爆実験の威力がかすんでいくのと呼応するかのようだ。

そのように曖昧あいまい化していく原爆のイメージとオッペンハイマー像を描きながら、約80年前の原爆使用直後と似通った形で、アメリカで今なお支配的な原爆観を改めて世界に示したのが、『オッペンハイマー』だった。

それは広島・長崎をはじめとして、原爆使用や核開発による非白人らの被害の実相には目を向けず、自らへの核報復への恐怖という内向きで狭い想像力の範疇に、原爆被害を矮小化する姿でもあった。大ヒットしてアカデミー賞を席巻し、アメリカ国内では高く評価されたが、そうした事実そのものが映し出している今のアメリカ社会の思考停止ぶりは、隠しようもない。

日本記者クラブ(jnpc)での会見「柴田優呼 ニュージーランド・オタゴ大学助教授『戦後70年 語る・問う』(35)原爆と日米関係」2015年10月29日