この映画が評価されること自体が、アメリカの思考停止だ
アメリカにとって、原爆は決して小さな事柄ではない。アメリカの国体に直結する極めて重要な位置を占めている。第二次世界大戦はアメリカがヨーロッパを凌駕し、世界のリーダーとなる契機となったが、それを実質的に見せつけたのが広島・長崎における原爆の使用だったからだ。
その意味で、原爆は戦後のアメリカのアイデンティティの根源にある。
だが『オッペンハイマー』を見ていると、原爆実験のシーンで強調された爆発力の強大さは、その後の聴聞会の尋問シーンを通じて、だんだんとかすんでいくような展開になっている。
また、オッペンハイマーが青年期につきあっていた女性の自死や、数多くの婚姻外での女性とのつきあい、配偶者との関係の破綻といったエピソードがもたらす影響も大きい。彼の人物像から、「原爆の父」といった“権威”や“名誉”ある側面が、どんどん差し引かれていく。それはまるで、原爆実験の威力がかすんでいくのと呼応するかのようだ。
そのように曖昧化していく原爆のイメージとオッペンハイマー像を描きながら、約80年前の原爆使用直後と似通った形で、アメリカで今なお支配的な原爆観を改めて世界に示したのが、『オッペンハイマー』だった。
それは広島・長崎をはじめとして、原爆使用や核開発による非白人らの被害の実相には目を向けず、自らへの核報復への恐怖という内向きで狭い想像力の範疇に、原爆被害を矮小化する姿でもあった。大ヒットしてアカデミー賞を席巻し、アメリカ国内では高く評価されたが、そうした事実そのものが映し出している今のアメリカ社会の思考停止ぶりは、隠しようもない。
コーネル大学Ph. D.。90年代前半まで全国紙記者。以後海外に住み、米国、NZ、豪州で大学教員を務め、コロナ前に帰国。日本記者クラブ会員。香港、台湾、シンガポール、フィリピン、英国などにも居住経験あり。『プロデュースされた〈被爆者〉たち』(岩波書店)、『Producing Hiroshima and Nagasaki』(University of Hawaii Press)、『“ヒロシマ・ナガサキ” 被爆神話を解体する』(作品社)など、学術及びジャーナリスティックな分野で、英語と日本語の著作物を出版。