映画『オッペンハイマー』がついに日本公開された。原爆を開発した物理学者の半生を描いた作品だ。本作での原爆投下の描き方に賛否が集まるなか、映画監督の森達也さんは「オッペンハイマーは原爆投下後の広島と長崎の映像を直視できない、そんな弱い人間として描かれる。だからこそ僕たちは、それがどれほどの惨状であるかを間接的に想起できる」という――。
映画「オッペンハイマー」のポスターが映し出されたスクリーンを清掃する作業員=2024年3月29日、東京都内
写真=Yuichi YAMAZAKI/AFP/時事通信フォト
映画「オッペンハイマー」のポスターが映し出されたスクリーンを清掃する作業員=2024年3月29日、東京都内

対立しているようで、微妙に違う

今年3月12日、広島在住の高校生や大学生ら約110人を招待して、日本では初めての『オッペンハイマー』一般向け試写会が、被爆地である広島市の映画館で開催された。

上映後には平岡たかし元広島市長と詩人のアーサー・ビナード、そして僕がステージに上がり、映画の感想を述べてから、観客からの質問にも答えた。

これを伝える多くのメディアでは、平岡元市長の「核兵器の恐ろしさが十分に描かれていないと思った」をまずとりあげ、これに対して僕が言った「的外れだと思う。実際の広島・長崎の映像を入れればいいとか、そんな問題じゃない」を対置した。

これだけを読めば対立しているようだけど、実状は微妙に違う。

このとき平岡元市長は引用したコメントの前に、「私は広島の立場から」と述べている。二期八年にわたって広島市長を務め、原爆ドームの世界遺産登録に力を注ぎながら核兵器廃絶を広島から世界に訴え続けた平岡の視点なのだ。また僕も、「的外れだと思う」は広島・長崎の映像がないとの(一般的な)批判に対してであって、平岡の視点に対してではない。

もちろん、こうした前段も含めて丁寧に報道したメディアも複数ある。でも新聞なら文字数、テレビならば時間の制限がある。何かを残すためには何かを切り捨てなければならない。その選択がメディアの編集権だ。

現実の世界はグラデーション

前段を省略したメディアも決して嘘などついていない。実際に平岡は「十分に描かれていない」と言ったし、僕も「的外れだと思う」と言った記憶がある。でも(文字や映像の)配置や順列が変わればこれほどに印象は変わる。

分類(カテゴライズ)は人の本能なのだろう。これは真実。あれは虚偽。これは悪。あれは正義。仕分けしないと不安になる。特に二分化はいちばんわかりやすい。

でもそれは現実ではない。100%の黒や100%の正義は概念だ。現実の世界はグラデーション。つまり濃淡だ。でもメディアはこれを表現することが苦手だ。さらに、結局はどっちなんだと分類を望む多くの人の声にも応えねばならない。こうして世界はメディアを通して単純化され、さらに矮小化される。

地球を取り巻く多様な人々
写真=iStock.com/wildpixel
※写真はイメージです

『オッペンハイマー』は傑作か。あるいは観るに値しない映画なのか。この命題に対しても正解などない。それは人によって違う。違って当たり前だ。だって視点が変われば世界は変わる。ただし補足するが、ビナードも含めて平岡も、決してこの映画を否定などしていない。公式にはビナードは、「大量破壊兵器を産む流れが残酷で、目をそらさずじっと見つめたこの映画は勇敢だ」と発言しており、「彼(オッペンハイマー)が感じた世界の破滅への危惧は、いま現実となってわたしたちの世界を覆っている」と平岡はコメントしている。