憎悪や不信感のなかで生きてきた人間は、組織を束ねることができないし、上に立つことができない。自分に従ってくれるような人間を「こいつは俺のことを本当に慕っているのだろうか?」とつねに心の奥底で考えてしまうからだ。
他人をまともに信じることができないばかりか、自分のもとを去る人間のことを「裏切り者」「敵」と見なしてしまい、絶対に許せなくなる。だがそれは、立花氏個人の資質や責任の問題というよりも、過酷な環境で疎外されることによって、人がそのような性質に変わってしまうのだ。
立花氏はいま党首として大勢の仲間に囲まれているが、おそらく氏はいまいる仲間のことをだれひとり心から信用できないのではないだろうか。自分のもとから去ろうとする人には、先日離党した区議会議員にしたこととまったく同じことをやってしまうだろう。
「疎外されてきた人びと」の支持は高まる
憎悪を抱く人は、しばしば社会への憎しみが「実利」あるいは「理」を超えてしまうため、よくもわるくも自分に嘘をつけないようになる。
たとえ得することであったとしても、心から思ってもいないようなことをけっして言えなくなる。まともな思考をすれば脅迫に当たるかもしれないような言動だとわかり、それを言わなければ実利が取れることがわかっていても、しかし我慢することができない。「お前の息子や家族の人生を潰してやる」と口走ってしまう。
立花孝志という男もまた、自分の憎しみ苦しみや復讐心を偽ってまで生きていきたいとは思えない人間だったのだろう。だから氏は「常道の枠内」の人になっても「社会的・政治的な常道に属さないアウトサイダー」だった頃のふるまいをやめなかった。いや、やめられなかった。
良識ある「まともな」「ちゃんとしている」人びとはN国のことを今回のことで見限るだろう。それがN国党という政党の限界ともなりえる。しかしながら、決して数は多くはないが、少なくとも今回の件で見限らないどころか、むしろ熱量高く応援する人びとが現れるだろう——立花氏と同じように、社会に対して復讐心を抱え、なおかつ社会の「良識」とか「常識的手続き」のようなものによって疎外されてきた人びとだ。彼らの支持は離れない。