日本は今、世界一を求める志向から、世界でひとつを求める方向へと舵を切り始めている。かけがえのなさというものに集約されていった結果、能や狂言、歌舞伎が、無形文化遺産になった。さらに、俳句と短歌も無形文化遺産にしようという動きがある。そのほかに、和食も世界文化遺産に登録されました。
私が万葉集研究の世界に飛び込んで40年近くなりましたが、文化財の国内指定や世界遺産指定にこれだけ日本人が熱中するようになったのは最近のことです。今や、歴史遺産や自然の活用のほうが日本人の関心事になっているわけです。より速く、より大きくではなく、すでに物の深みや芸術というものが街づくりの中心となっているのです。
持ち運べないから、大仏には価値がある
それから、奈良には東大寺の大仏もあります。先ほど挙げた「奈良には、何も残っていませんよ。みんな、京都に持ってゆきましたから」という奈良の人の言葉には、こんな続きがあるんです。「大仏さんは持って行けへんかったでしょうけどなぁ」。
奈良時代最大の公共投資は、大仏建立でした。現代では、国が税金で道路をつくったり、橋を架けたりしますよね。それと同じように、1200年程前の人々は、大仏をつくったのです。
一説によると、東大寺の大仏と大仏殿の創建時の建造費は現在の価格で約4657億円。莫大なお金をかけたことになりますが、現在もこの大仏のおかげで、奈良の街には多くの観光客が訪れているわけです。1200年以上も稼ぎ続けられるなら、十分元を取ることができる。そういう公共投資が今、本当になされているのでしょうか。
奈良の大仏の特別なところは、持ち運びができないことです。たとえば絵画などの作品は巡回したり、郷土料理も各地で再現したりすることができます。でも、奈良の大仏は、そこでしか体感できない。だから、人を呼び寄せることができる。そして、持ち運びができないがゆえに、そこにあり続けることで、歴史を刻んでいくことにもなる。
大仏や“偉大なる空洞”のように持ち運びのできないものは、文化となり、その土地自体に大きな意味を与えることになるのです。